本阿弥光悦 鷹峯芸術村(光悦寺)と琳派ゆかりの地を訪ねる

刀剣と茶わん

とある秋の日の午後、新型コロナ感染を理由に家の中に閉じこもってばかりでは精神にも体にも良くないと思い、たまには遠く鷹峯あたりまで歩いて行ってみようかなどと考えた。ただ歩くだけでは詰まらないので、このあいだ本阿弥光悦の屋敷跡というのを見つけていたので、そこを起点にして「光悦ゆかりの地」というものをつくってみよう、と思い立った。
で、調べてみると出てくること出てくること、こじつけがましいこと甚だしいのは恐縮だが、写真を撮ってみると500枚余りになってしまった。だいぶ削除したがそれでも50枚ほどか。少々 重たいのは勘弁していただくとして、最後まで見ていただけたら作者冥利につきるので、その点よろしくお願いするとしよう。
「刀剣と茶わん」と付けたのは、光悦は代々刀剣の鑑定と刀研ぎの仕事に従事していたこと、それに茶わんを造っていたことによる。

本阿弥光悦屋敷跡

光悦の屋敷跡は京都市上京区にあったと伝わっている。蹴鞠で有名な白峯神宮の東隣にあり、今はその場所にマンションが建っている。以前、某テレビ局の番組で中立売通りの場所が紹介されていたので、そちらにも行ってみたが確証が得られないので写真はボツにした。

 目 次
・楽吉左衛門邸 ― 光悦と楽家
・尾形光琳・乾山の墓 — 乾山の陶器と光琳の画
・千家 — 千利休辞世の和歌
・本法寺 — 本阿弥光悦菩提寺
・大徳寺 — 千利休処罰の原因、 孤蓬庵 ・井戸茶わん“喜左衛門”の由来
・鷹峯の里
・光悦寺 - 本阿弥光悦の工芸(漆器、茶わん)
・『美術家としての光琳の位置』 ― 内藤湖南

白峯神宮

プロのサッカー選手などが勝利を願って訪れることで知られている。

楽焼家元 楽吉左衛門邸

知らぬ者のいない楽焼家元「 楽吉左衛門 」の屋敷である。初代は長次郎といって帰化人の血をひく瓦職人(飾り瓦の工人)とも伝えられている。長次郎は千利休の知遇を得て利休好みの茶わんを造っていたようだ。

二代常慶・三代道入(のんこう)と光悦は結構付合いがあったようで、光悦が常慶に宛てた手紙によると「白土・赤土を急いで(鷹峯まで)もってきてほしい」と依頼している。光悦は鷹峯に窯は持っていたようだが、楽家でも焼いてもらっていたようである。

楽美術館には何回か入ったことがあり、三代目までの茶わんは「持って帰りたい」衝動に駆られたことがある^^;
※南隣には“楽美術館”が併設されており、年に何回か公開されている。

官休庵(武者小路千家)

三千家の一つである。ところは武者小路通りに面しており、楽家のすぐ北に位置している。

狩野元信邸跡

武者小路千家のすぐ北にある。狩野派の租・狩野正信の子で、孫には永徳がいる。次に尾形光琳・乾山の墓に参ろう。

上京民家

西陣織に関係する家だろうか。こういう造りの家が上京区にはまだまだ残されている。

泉妙院

この寺には尾形光琳・乾山とその一族の墓がある。珍らしく門が半分開いていたので遠目に写真を撮影。光琳・乾山の曽祖父・道柏の妻 法秀は光悦の姉である。寺には光琳の作品、文献などが保存され、位牌も祀られている。
※通常非公開

尾形家の墓

門から撮影したが、広角レンズではこれが限界。酒井抱一が墓を建立したという墓標が写真の真ん中に建っている。

乾山の陶器と光琳の画

兄 光琳に比して弟の乾山は何かと下に見られているような感じがある。そのことについて北大路魯山人が面白いことを言っているので紹介したい。

「確かに光琳の方が乾山より有名である。のみならず、光琳は芸術的価値から言っても固より乾山に優れていること論ずるまでもないように考えられている。要するに、乾山の存在は光琳に比して、はなはだ淋しい。

食器に画を描くことに興味を持った乾山は、掛物の画を描く光琳と比べて最初から割の悪い立場だった。しかし、今日では乾山もいつとなしに識者間には確かと認められて、芸術上決して兄の光琳に劣るものとされていないが、それでも一般からは光琳の方が お馴染が深くて偉いと考えられている。

…技巧的な玄人らしい腕前を持つ点において、兄の光琳を巨匠として感じはするがどこまでも絵描きでござい、画をかくのが商売であると作品の上に説明して、気品を漂わしつつ匠気を横溢させている。

(固より下品な匠気ではないが)弟の乾山は、その表現において、画を描いても字を書いても玄人らしき振舞いはなく、どこまでも素人くさい稚鈍さを失っていない。いわば垢抜けのしたような、しないような、至ったような至らぬような特徴を有するのが乾山である。…

光琳は宗達に遠く、乾山は宗達に近い
光琳は宗達に遠く、乾山は宗達に近い。宗達や乾山は艶の中に多量の寂を保有しているが、光琳はどこまでも華麗に了っている。私だけの考えを申すなら、乾山はおそらくものぐさな男で、ずいぶん気紛れ屋さんであったろう。そこがまた光琳より芸術的なのであろう。」
※魯山人『乾山の陶器』より

わたしが言うのもなんだが、魯山人にしては上手い文章である。魯山人だけが乾山を持ち上げているわけではない。初代乾山に傾倒し、六代乾山に弟子入りしたバーナード・リーチは次のように言っている(いい過ぎだろう)。

乾山・光琳展を見たリーチは「…この真に日本的な芸術を十七世紀に生んだのは大光悦であり、十八世紀にみごとな活動で幕を引いたのは初代乾山であったからだ。光琳は、彼の流派の名前(琳派)のもとに広く世間に知られているが、四人(光悦、宗達、光琳、乾山のことか―筆者)の芸術家の中では最も劣ると私は考えている。この考えには友人たち数人(柳、富本のことか―筆者)も同意した。光琳はすばらしく頭のよい人物だが人間的度量は比較的狭いほうだ。」
※リーチ『日本絵日記』より

この本の中で、フェノロサが 光悦・宗達・光琳・乾山の四人を四大装飾家と評定していることを、リーチ( 琳派の研究者でもある )は紹介している。

次はお隣の千家に向う。

小川通り

小川通り沿いには表千家・裏千家家元、それに茶の湯の道具を扱う店が建ち並ぶ。

表千家 表門

紀州家から拝領した武家風の門である。どうりで いかついはず。

千利休辞世の和歌
ところで 千利休は何故切腹しなければならなかったのだろうか。豊臣秀吉の怒りをかったことは間違いないとして、そこに至った原因がもう一つ判然としない。そのことは後ほど究明するとして、表千家不審庵には利休辞世の偈と和歌が残されているという。

提ル我得具足の   ひっさぐるわがえぐそくの

一太刀今此時そ   ひとつたちいまこのときそ

天に抛       てんになげうつ

    天正十九仲春
    廿五日 利休宗易居士
           (花押)

裏千家今日庵 兜門

利休の語
千の利休が語に、客亭主たがひの心にかなふはよし協ひたがるはあしし、又寂びたるはよし寂びさせたるはあし、風流ならざるところ却て風流、求めて風流なるは風流ならざるなりとあるは、流石に一道の宗匠ほどありて面白き言といふべし。
※幸田露伴『折々草』より一部を引用

本法寺仁王門

本法寺は裏千家の西隣にある日蓮宗の本山である。 「外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました」と本法寺沿革に記されている。本阿弥家の菩提寺である。

本法寺境内

また本法寺は本阿弥家の菩提寺であり、狩野派に追いつけ追い越せと孤軍奮闘した長谷川等伯が能登の七尾から都に来た頃に住んでいた寺でもある。寺にある大作「仏涅槃図」は京都三大涅槃図の一つに数えられている。 

光悦翁手植の松と等伯像

本堂の前には「光悦翁手植の松」がある。本法寺庭園 “巴の庭” は光悦が作庭したと伝わる。 隣の青銅の立像は長谷川等伯である。どちらも教えられなければ見過ごしてしまうほど存在感が薄い。“巴の庭”は、若い頃に一度見たことがあるが、これといった印象は残っていない。
次に向うのは大徳寺である。そこを通り抜けるのが鷹峯への近道でもある。

大徳寺金毛閣

千利休 処罰の原因

大徳寺山門金毛閣である。
千利休の死の原因の一つは、寄進した金毛閣二階に利休木像が安置されていたからと言われている。その門の下を天皇の勅使や秀吉が通ることになるので不敬罪にあたる というわけだ。

桑田忠親著『千利休』では、 「利休処罰の原因や動機については…大徳寺の山門上に利休の木像を安置させたことと、茶道具の目利きや売買に私曲のあったことの二件を明白な罪状として、利休は処罰されたのである。」と述べられている。

千利休(木像)磔の話
豊臣秀吉は利休の木像を大徳寺山門上から引きずり下して、聚楽の大門の戻橋で(はりつけ)にしている。そのうちに、利休へは切腹の申し渡しがあった。利休は上洛を命ぜられ堺から聚楽の自邸(現在の清明神社境内地)に戻り、切腹となった。首は秀吉のもとに届けられたが「秀吉は首実検さえせず、これを聚楽の戻橋で獄門に掛け、柱を立て、利休の首に鎖をつけて、かの木像に結びつけ、首を木像の足で踏ませて、晒しものにしたため、これを見物する老若男女が、毎日、ひきもきらなかったという。」
※桑田忠親著 小和田哲男監修『千利休』より

孤蓬庵

大徳寺塔頭の 孤蓬庵 である。小堀遠州が開基した。国宝 大名物の井戸茶わん “喜左衛門” はこの寺にある。喜左衛門のビワ色の肌、 それに高台脇の梅花皮は茶わん好きにはたまらない魅力である。

井戸茶わん 喜左衛門の名の由来
その昔、喜左衛門という馬曳きが夜ごと茶わんを腰にぶら下げて持ち歩き、遊客を馬に乗せて島原へ運んだということである。その茶わんは転々と人から人に渡り、ついに松平不昧公のコレクション(金550両!)になるが、この茶わんを所有するとデキモノが出来る、とかで 孤蓬庵 に渡ったとか。ちなみに「かいらぎ」とは半島の方ではカエルの卵のことを言うようだ。喜左衛門は わたしの好きな茶わんの一つでもある。
※ 孤蓬庵 は通常非公開

今宮神社東門

今宮神社の西北には鷹峯がひろがっている。

今宮神社門前の京町屋
鷹峯 お土居跡

ようやく鷹峯に取りついた。山側には豊臣秀吉が築かせたという「お土居」が残っている。お土居の向うにある山が鷹峯三山のようだ。このあたりは“ブラタモリ”でも紹介されていたので記憶のある方もいることだろう。当時の石積なのか、それが結構残っていて賢固な造りだったように見える。
鷹峯といえば都の北の外れ、こんな遠いところにまで土塁を築いていたのだ(中国の城壁と比べるのはマツガイかも^^)。

鷹峯の民家

軒が大きくせり出していることから、農家の造りだろうか。鷹峯の民家には、
市中の民家と違い “ばったり床几” は見当たらない。

老舗の醤油屋さん

文化二年(1805)創業という。こちらの醤油を一度買いに来たことがある。

鷹峯街道(国道31号線)

周山に抜け、日本海へ出る街道なので結構交通量が多い。昔は山賊の出る物騒なところだったようだ。都の北の交通の要衝でもあった。

源光庵

紅葉の名所であるが、現在本堂改修工事の最中で、令和三年十月頃までは
拝観できない。

遣迎院

備中高松城の城門を移築した門のようだ。結構この辺りは寺院が多い。
光悦が土地を寄進したという常照寺も近くにある。

鷹峯民家
農家のようだが、住んでは いないように見える
光悦寺入口

光悦村あらわる?

ようやく光悦寺に着いた(ここまで徒歩で二時間余り)。
光悦が晩年に住んでいた鷹峯は、徳川家康から元和元年(1615)に拝領したところで、 “本阿弥一族および友人、職人らとともに移り住みました。そこでは光悦を中心として感性豊かな創作活動が展開されたことから、後に「光悦村」と称され、芸術村として広く知られるようになりました。”と 府のホームページで紹介されている。

以前聞いた話では、家康は「光悦がのんびりと過ごす土地をさがしている」という話を人づてに聞き、鷹峯を与えたとか? 都の北から敵が襲ってきた場合には本阿弥一族が防御にあたる、という意味もあったのかもしれない。

光悦寺参道

モミジの葉が赤く色づき始めていた。

山門(日蓮宗)

夕方だったせいか、境内には入れなかった。雪の降るころに再訪するとしよう。
なお 光悦の墓は境内の中にある。

石畳がきれいだ。そろそろ帰るとしよう。

寺の背後には鷹峯三山

本阿弥光悦とは何もの?

光悦と聞いて人は何を思い浮かべるだろうか。刀剣鑑定士、能書家、画家、工芸家、陶芸家などなど たくさんの肩書が思い出される。わたしの好きな光悦の作品は第一には蒔絵の「 舟橋蒔絵硯箱 」である。実物を前にしたときには、その独特の蓋の形に圧倒された。誰があのような極端な反りを思いつくだろうか、誰が鉛の板を漆器(蒔絵)に用いるだろうか。派手で大胆だけれど美しい。欲しい! と思わせるものがある。この形は北大路魯山人でも思いつかなかったことだろう。

第二には 茶わんである。鷹峯でもよい土があったようで、陶器を焼く窯を築き、楽焼の吉左衛門常慶や その子・吉兵衛(のんこう)から茶わんづくりを教わったようだ。
ある人は 陶磁器に求めるものは品格だという。わたしもそう思う。いつのころからか、そう考えながら陶磁器を見てしまう習慣ができてしまった。価格ではない。他人の評価でもない。

おっと脱線してしまった。茶わんに戻ろう。光悦作の白楽茶わんに「不二山」がある。工芸家の人格はその作品に現れる、そう思わせるものがある。それが「不二山」である。見ただけで人を畏怖させるような厳しさを備えている。気迫がこもっている。刀で胴をそぎ落としたような鋭角な感じがある。とても手びねりでこさえた物とは思えないのだ。

「不二山は、もともと白楽茶碗をつくるつもりだったらしいが、焼成中に窯のなかで下半分が窯変して炭化したらしく、上半部は白楽に下半部は鉛黒色に焦げ、偶然に思わぬ効果が加わって、光悦が考えもしなかったものが出来上がった。しかもそれはあたかも霊峰富士山を連想させるような趣であり、また光悦としても二つと出来ない茶碗と思ったのであろうか、その箱の蓋表に光悦の自筆で「不二山・大虚庵」と書きつけされている。」
※『日本の美術』 (№14) ― 茶碗より

「不二山」が出来たのは偶然らしい。吉兵衛は耐火温度の高い窯を発明したというから、その窯で焼かれたのかもしれない、と想像がふくらむ。“八瀬の仙人”
石黒宗磨なら「こら あかん」と言ったかどうだか知らんけど、不本意な作は縁の下に投げ込んでいたかもしれない。

源光庵漆喰塀
ちょうど小学生が帰宅する時間だった
京都市街が望める

想像の鷹峯はどこに?

鷹峯は市内と比べ標高の高い位置にある。意外にも農家は二三軒しか残っていないように見えた。第一農耕する土地がわずかしか残されていなかった。三十年前には趣のある家が多く残されていた記憶があるのだが、今は新興の住宅地と化し、単身者向けのアパートがあふれていた。モダンな造りの新興ホテルまで出来ていたのにはびっくり。光悦の思い描いた「芸術村」はどこにいったのだろうか。

小川通りの夕

上京区まで戻ってきたころには 日は落ちていた。

光悦屋敷跡までもうすぐ 

光悦村の名残り

光悦ゆかりの地、それに鷹峯をめぐる五時間の徒歩の旅であった。半日飲まず食わずで自宅に戻ったころには相当疲れが出ていた。写真撮影となるといつもこうなのだ。昼飯を食べる時間がもったいないのである。

旅の土産には、鷹峯で買った九条ネギと農家の庭先に生えていた小さな柿。虫に食われたような表面が黒ずんだ柿、これが実に美味いのだ。取れたての野菜は農家の玄関先で台の上に広げて売られている。むろん無人! 代金はというと、空き缶が無造作に置いてあるのでその中に入れる。つり銭が欲しければその中から取る。缶の中を覗いたら数百円が入っていた。お金を盗む者などはいない、ということか。これが光悦村の名残りだろうか。光悦は後々まで観音様に喩えられていたと伝わっている。村には いまでも日蓮の教えが伝わっているのだろうか。

※諸先生のお名前に敬称は省略させていただきました。

『美術家としての光琳の位置』 — 内藤湖南講演

光琳の二百年忌に際し講演をなすべく相談をうけたものの、自分には光琳については特別の研究がないからそれは断ったが、今次はせっかくの希望だから否むに辞なく、ここに光琳について漠然と考えた一般的概念を発表することとする。

光琳派の起源
光琳の画は徳川時代に起った種々の流派の中で、すこぶる大なる派を作して、光琳以前にあって光琳の租と仰がれた人々、および光琳以後にあってその流派を拡張した人々もことごとく琳派という名をもって目せらるる程であるから、光琳はこの派の中心人物であるといい得らるるのである。

その光琳の画が装飾すなわち図案に傾いて居るということは、何人といえども認むる所で、自然その特色もここに存するのであるが、これは実は独立した美術としては、あまり感服すべき程のものではないのである。

琳派の起源を考えて見るに、古永徳の頃からして、大きな襖、屏風などというものに対して装飾的の絵画を描くということが始まりで、光悦等はこれを美術工芸に応用したというよりは、むしろ美術工芸を本位として逆に装飾的趣味を絵画の方に注入したといってもよい位であって、宗達等は又もっぱらその法を屏風などに用いたのであるが、元来これは土佐派の別派として起ったもの、土佐派の正統が衰えた結果として別派の人々がこれを装飾の方に復興させたので、なお浮世絵画家等が矢張り土佐派の別派としてこれを古代の風俗がから一変して近代の風俗画に及ぼしたと同じような岐路に入って成功したものである。

光琳派の位置
当時土佐派の正統はその技術がことごとく形式に流れてほとんど観るに足るべきものがなかった。そこで北宋画を専門とするけれども、あわせて狩野派というものを加えた土佐派においては、古永徳がこれを大建築の装飾に応用し、光悦がこれを工芸品に応用し、宗達がこれを比較的小さい装飾品に応用したのであって、それが琳派の起源をなし、光琳に至ってこれをあらゆる方面に応用し、すこぶる豊富な意匠をもって変化の多い画風を創造したのであるが、要するに大体は装飾を主として、しかもその画が応用される物質輪廓等のものと最もよく調和することを主としたので、その周囲との調和から独立して絵画として活動して居るという点においては、すこぶる欠乏して居ることをまぬかれない。

人物を描くとしても、その輪廓ならびに異なった輪廓を持てる人物の配合、その配合を全体として見た時の輪廓、配色などに意味があるのであって、その人物の精神等については余り多くの注意を払はないのである。それで花卉(かき)樹木というようなものにおいても、花卉の自然の色、樹木の自然の形とかいうものよりも、その画の彩色の配合、形の配合という点に長所を有している。しかしながら花卉樹木というようなものは、その自然物と、光琳が考えに浮んだ形との間には、もちろん連絡の無いことはない。

また光琳の考えた形および色は自然に得るところがなかったというわけでもない。元来形および色は単純なものであるから、自然と光琳の意匠との間に密接の関係があるけれども、人物に至っては光琳の考えた形とか色とかは、考え通りに出来るということは余程困難な事であるから、光琳の描いたものは人形のような所に趣味があるのであって、人間というものの活動の点に趣味があるものではない。これは土佐派正統の盛んな時の芸術に較べれば、一種の頽廃の現象といわねばならぬ。

琳派と復古
【省略】…土佐派は(一旦)復興したのであるが、間もなく全く衰微に傾いて来たのを、琳派に至って又復古を企てた、けれどもそれは古代の活動的精神の画風に復興したのではなくて、矢張り鎌倉末期から南北朝頃のいくらか沈滞した形式に流れた趣味から思いついたものである。

琳派の余弊
もっとも光琳の画は、琳派の先輩の人々に較べればすこぶる軽妙な点があって、その軽妙な点をどうもすると活動的精神の表現のように誤解されているが、筆意の軽妙と活動的精神とは別物である。しかし当時において土佐派の正統たる光起のごときは全く狩野派の奴隷となって、その画くところの家の風の画は、足利時代末期の最も衰微した時の、形式的な画風を脱しない。これらのものに較べれば、とも角も一方に偏して居り、古土佐派正統の最も勝れた画風を伝えたものとしては遺憾は少くないけれども、光琳の方が光起以上に土佐派の遺風を存したものといってよい。

その後この琳派を学ぶ人は、筆意の軽妙な筋を伝えた渡邊始興のごとく、彩色の豊麗な筋を伝えた抱一のごとく、益々この絵画というものを独立したものとして取扱う精神に遠ざかって、全く図案に流れてしまうようになった。

それで今日では光琳とは主に図案の元祖として尊崇されて居るのであるが、図案家としても多少偏して居るということは免れない。それは形は畸形を喜び、彩色は濃艶なることを喜ぶようにのみ傾いたために、藤原時代以前の図案のように、高尚な意味をもってしかも自然物を超越した流風は、今日に至るまで殆ど復興を出来なくならしめた。

これは皆図案としいへば光琳に囚われ、光琳以後においては四条円山派風の写生に囚われた結果である。この点において光琳の風は日本の図案に貢献するところもあろうけれども、また図案の発達を限ってしまって、古代のごとき高尚なる図案に達する道程を奪ってしまったという点においては遺憾な事はないでもない。

貴族社会と琳派
我々は光琳の勝れた点は感服するけれども、その欠点をも十分にしらなければならぬと思う。

今日以後絵画を個性の発揮というものに傾けようという点からいえば、光琳のような風は勉めて避けるということを考えねばならぬ。世の中が豪奢を帯び、生活の向上した時代は、その時代精神は何時でも自分の生活する周囲のものを自分の目的に服従させ、隷属させようとする傾きがあって、桃山時代のごとき最も豪奢な生活を現した時は、独立した美術は多く発達せずして、生活に圧服された所の美術即ち工芸美術のみが盛んになるようになった。
光琳の生存した元禄時代のごときも、最もそういう傾きがあって、この時代はむしろ建築絵画のごときものよりも、調度品即ち人間の使用する日用物品を美術品としよういう傾きが盛んであった。ために純正の美術が発達しにくい、ことに貴族社会において最もその傾きがあったので、幾らか独立した美術に近い浮世絵のようなものは、平民的の傾向に発達していった。

即ち当時においては一蝶、師宣とかいうものの画は、貴族社会の拘束された美術から免れて、その画材も形式をも平民の社会において自由に発達することを要求したのである。それで当時の真正の美術の精神というものはむしろこの初めて発達しかかって来た浮世絵にあるということが適当であるかも知れない。

しかし光琳は当時の貴族社会の要求に応じてあらわれた天才であるということは疑うべからざる事であるが、それだけに又大に拘束されたところもあるということも認めなければならない。その後土佐派というものは、徳川末年において古画の研究が進歩して、かの冷泉為恭のごとき名手があらわれ、その復古派としては光琳以上の成績を収めたと思われるけれども、しかしそれは光琳ほどにも貴族的の要求にも応じられず、浮世絵てきにも現代的要求にも応じられなかったので、その勝れた技量も巧妙な模倣ということに止まるを免れなかった。

そうして見れば光琳のごとく、土佐派の正統の精神は伝えないけれどもむしろ時代の要求に適ったという点は、その偉大だとするところであるかも知れないが、光琳の時代に対する位置、その美術の制作に関する力量並びにその長所短所ということは、今日においても研究する必要を認める。単に盲従せないで研究するということの価値あるものであることを認める。
※旧漢字を当用漢字に換え、送りかな等を現代風の文章に直しています。

(大正四年五月三十日「大阪毎日新聞」日曜附録)内藤湖南全集第十三巻所載