五社堂を訪ねナマハゲ伝説と円仁に思いを馳せる。そして男鹿の丸木舟のことなど

汗だくになり999段の石段を登りきると、そこには文字通り
五社(赤神神社五社堂)が鎮座しておられた。幾度かの修復
を経てきたのだろう、屋根は茅葺ではなく、杮葺きに代わっ
ていた。

赤神神社五社堂(国指定建造物重要文化財)

赤神神社五社堂 とは?

正面入母屋造、背面切妻造の社殿が五棟、横一列に並ぶ。
向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげん
どう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と称
している。現在の五社堂は、宝永7年(1710)の建立とい
う。平成十年から平成十四年まで大修理が行われたので、
比較的真新しく感じられた。

なまはげ発祥の神社 ― 赤神神社五社堂
「男鹿のナマハゲ(行事)には、元、モデルとなっている
五匹の鬼がいます。眉間(みけん・父)、逆頬(さかつら
・母)、眼光鬼(がんこうき)、首人鬼(おおびとき・子)
、押領鬼(おうりょうき)。
なまはげ(人間+面)行事の、元、モデルの鬼を今日に伝
える神社が赤神神社五社堂です。」…社務所のチラシより

江戸時代のナマハゲ行事

文化八年(1811)の正月を八郎潟の西、宮沢(南秋田郡琴浜村)
という村の漁師の家で迎えた菅江真澄は、十五日にナマハゲ行事
を体験している。そのことを紀行文に残しているので、その一部
を紹介しよう。

「夕暮れふかく、灯をともして炉のもとに、みながくるま座とな
っているとき、突然、なまはげがはいってきた。角が高い丹塗り
の仮面を冠り、黒く染めた海菅(淡水藻の一種と言うが、今の何
かは不明)の髪をふり乱し、けら(肩蓑)というものを着て、何
が入っているのか、からからと鳴る箱をひとつ背負い、手には小
刀を持って、“わあ”といいながら不意にきた。“それ生身剥(なま
はげ)だ”と、童はびっくりして声もたてず、人にすがりつき、
ものの陰に にげかくれる。これに餅を与えると、“わあ、こわい
ぞ、泣くな”などとおどすのである。」
『菅江真澄遊覧記』男鹿の寒風より

ナマハゲは役行者(役小角)の配下だった?

修験道の開祖である役行者が大和国にいたころ、配下として
いた鬼が前鬼(義覚・ぎかく)、後鬼(義賢・ぎけん)とい
う夫婦の鬼である。この夫婦には五人の子があったとされて
いて、今でもその子孫(?)が大峰山の麓に修行者のために
宿坊を開いている。

五人は それぞれに名があって、五鬼助、五鬼上、五鬼継、五
鬼童、五鬼熊という。またそれぞれ宿坊を持っており五つの
宿坊があった。その内で一つ残っているのが小仲坊で、 五鬼
助(ごきじょ) さんが宿坊を守っている。ほかの四人の子孫
は、明治の頃より次々に宿坊を閉めて出て行ったという。

こんな話をするのは、修験者は全国各地を巡るようなので、
羽黒山、男鹿本山・真山などにも当然修行に出向いているは
ずなので、ナマハゲ伝説の一つに修験者説もあり、 赤神神社
五社堂 とも関係があるかもしれない、という話なのである。

写真右端、客人権現堂には円空作と伝わる十一面観音立像
(県指定有形文化財)が収められており、年に一度公開さ
れているようだ。神社に円空仏があるのは、明治の廃仏毀
釈(明治以降、神社として独立した)と関係しているのだ
ろう。

縁起によると、貞観二年(860)、慈覚大師円仁が当地に
来て赤神山日積寺永禅院を創建したのに始まり、建保四年
(1216)比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち
2社が廃れたため五社堂となったといわれている。

赤神神社五社堂(中央堂)
赤神神社五社堂(中央堂)内厨子 ・国指定重要文化財

赤神権現堂内に安置されている厨子で、堂より古く室町時代
後期のものという。

おびただしい彫刻が施されている
中央堂
十禅師堂

赤神山日積寺永禅院を創建した 慈覚大師 円仁とは?

「旅行家としてのマルコ・ポーロの名声は世界中にとどろいて
いるが、慈覚大師円仁の名前は、彼の故国日本でさえもわずか
に学者の間に知られているにすぎない。」

この言葉は元駐日大使ライシャワー氏が著した『円仁 現代中国
への旅 ― 「入唐求法巡礼行記」の研究』で述べられている。

円仁は最後の遣唐使として838年から847年まで副使小野篁らと
ともに入唐し、“僧俗を問わず学問や技術の特殊な領域を研究す
るために中国に渡った”のである(入唐した当時、円仁は45歳で
あった)。そして五台山などを巡礼し、苦難の末長安へたどり
着いたという。

円仁が開基にかかわった寺院数
帰国後は、立石寺、瑞巌寺、中尊寺など東北では331寺余、関東
に209寺を開基したというから、とても常人とは思えない行動力
である。そのほか蝦夷地にも開基伝承が存在する。貞観二年
(860)、慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院を創建
したというから、ここは帰国後に開基したことになる。
入唐以前の若いころにも東北を修行して歩いた、という説もある
ので年代を確定することは学者にまかせ「縁起」を信じよう。

最後の遣唐使
遣唐使のことを調べていると、今までの遣唐使の概念が覆された。
というのは、遣唐使( 使節団 )は船一隻か二隻で編成され(初
期の頃はそうだった)、せいぜい一隻に数十人が乗っているのだ
ろう、と考えていた。ところが最後の遣唐使を調べていると 、
遣唐使の構成は四隻からなり、「一人の大使、一人の副使、おそ
らく四隻のそれぞれに一人ずつ配属されたであろうところの四人
の行政官(判官)、および六人の秘書官(録事)からなる。

(途中略)録事と準録事に次ぐ役職は船管理者(知乗船事)であ
った。この称号の文字通りの意味は“船の荷物の管理人”であり、
彼らが荷物や貢ぎ物について責任を持った役職であったことがう
かがわれる。
… 知乗船事 についてもう一つの面白いことは、彼らのうち三人
まで大陸系の人物であり、それ故に、多分ある特殊な大陸の地理
に関する知識を持っていたと思われる。」
ライシャワー著『円仁 現代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」
の研究』より引用

さらに各船にはそれぞれ一人の船指揮官がおり(使節団の高位の
人物)、船の一切の指揮権および人事権を握っていた。実際には、
艇長(船師)と艇長代理(準船師)それぞれの船を動かす船長だ
ったようである。

さらにほかのメンバーには書記官、通訳(三人の朝鮮人)、武官、
僧、大工、水手、歴史研究生、医師、天文留学生、陰陽師、音楽
家、画師など多くの研究者、芸術家が乗船していたのである。
その数はといえば、総数650余人、一隻あたり160余人が乗ってい
たことになる(想像していたより多人数である)。

船が無傷で大陸に上陸できるのは稀で、大概難破同然で、唐の船
の助けを借りて上陸している。上陸出来たらできたで、次々に難
題が持ち上がり遅々として長安には進めない。遣唐使とは、いわ
ば招かざる客なのであった。
はたして、そのうち無事に帰国できた者はいったい幾人いたであ
ろうか。

※遣唐使について調べたければ、円仁著『 入唐求法巡礼行記』、
ライシャワー著『 円仁 現代中国への旅 ― 「入唐求法巡礼行記」
の研究』が参考になる。

長床跡(読経するところ)
社務所
お堂の前は きれいに整備されている
帰り道
右手に姿見の井戸がある
よく整備された石段
参道脇のブナ林
かつては参道の両側に多くの寺院があった
駐車場のある場所に到着
駐車場から毛無山(五社がある)を望む

五社堂へのアクセス
五社堂のある門前を訪れるには、バスは本数が限られているので
おすすめできない。自家用車で巡るか、男鹿駅前に観光タクシー
( 幾つかのコースが用意されている )があるので それを利用す
べき。駐車場には公衆トイレもあり、眺めも良いところである。

駐車場からの眺め(鳥海山が望める)
門前港
真澄は ここでも歌を詠んでいる

風あらき浦の小浜のなみまくらうちもねられす明む此の夜は

菅江真澄の功績と芭蕉

菅江真澄は本草家であるが、国学の第一人者・賀茂真淵の孫弟子
でもあり、歌人でもあったのである。歌の良しあしは わたしには
分らないが、内田武志氏がいうには あまり上手ではなかったよう
だ。しかし歌人つながり、医師のツテなどで各地を行脚するには
歌人の肩書は結構役に立ったようで、何と五十年ちかくも漂泊の
旅に出て、一生を終えた人なのだ。この点では芭蕉も真澄には敵
わない。
真澄は俳諧師松尾芭蕉の名を知っていただろうに、何故か真澄の
文章には芭蕉の名は見いだせない(芭蕉は「おくのほそ道」の旅
を終えて俳諧を革新した)。

菅江真澄の名は、『菅江真澄遊覧記』全五冊(残されていた資料
を 内田武志氏 などが本にまとめた)を後世に残してくれたお陰
で、「紀行作家」として名を残した。またその著作は大きな遺産
(中部・東北・蝦夷の風俗)として民俗学、考古学の資料として
役立っている。残念なことに その名と功績を知っているものは少
ない。

寒風山を望む

男鹿の丸木舟を観る

さて昼食も摂らず、バスに乗り男鹿駅に戻った。次の秋田行き電車の
発車時刻までは小一時間あるので、予定していた男鹿の丸木舟を見学
しようと、展示してある男鹿市民文化会館の場所を駅員さんに尋ねた。

徒歩で15分くらいの所にあるが、丸木舟など知らないという。駅構内
にある観光案内所で訊いても、「そんなの知らない」という返事。
とにかく行ってみようと線路沿いの道を寒風山方角に向って歩く。10
分ほど歩いてもそれらしき建物は見えてこない。とある建物に入り、
道を訪ねると「まだまだ先だ」という。気温30℃を優に越える中、重
たいリュックを背負い、またまた走るはめになる。10分ほど走るとよ
うやく目指す建物に着いた(行かれる方はタクシー利用をすすめる)。

※駅構内には手荷物を預けるロッカーは無く、観光案内所で9時から
手荷物を預かってくれる(有料)。
わたしは朝が早かったので預けられなかった(またまたこれが体に思
わぬ負担をかける原因になった)。

男鹿市民文化会館前
男鹿の丸木舟(昭和26年造)

なぜ男鹿の丸木舟に興味を持ったかといえば、幸田露伴が明治三十年
晩秋のころに男鹿半島を反時計回りに一周し、『遊行雑記』という記
事を「太陽」という本に寄せている。当時男鹿半島(記事では、
「雄鹿の嶋」と表記)の西南部には道らしき道もなく、馬や人夫を雇
い一周したが、途中で道に迷い、海岸線では氷雨、風、波に打たれ、
死ぬような思いをしたようだ。

その時の旅で、男鹿では明治になっても丸木舟を漁に使っているのを
見て、アイヌの丸木舟との違いを述べている。男鹿の漁師のいうこと
には、丸木舟は樹齢300年を越える秋田杉を材に用いていること、その
舟は耐用年数 200年は あること、わたしは その文章を読んで男鹿の丸
木舟を見てみたい、と思ったのである。

露伴『遊行雑記』 より、丸木舟の項 抜粋

“此の辺(戸賀)の浜の真砂地に引き上げある舟どもをふと見れば、
舟といふ舟は皆独木舟(まるきぶね)なり。 独木舟 は古のいわゆ
る蝦夷が島人もこれを用うれば然(さ)の珍しとすべくもあらねど、
此地(ここ)のは「あいぬ」の用うるものとも、いささか その造り
ざまを異にすれば、そぞろに眼も留まり心も惹かる。

……ここのは全く一つの大なる杉の木を刳りて造り成したるものに
て、…「あいぬ」の舟よりもなお人の知恵といふものの加わり居ら
ぬ真の 独木舟 なりといふべきなり。…この舟の価は昔より米三石
(約450kg)と定まれるよし、いづれも皆この島山の杉をもて造
るなるが、かかる舟なればその寿命(いのち)もまた甚だ長く、
二百年以上のものにて今なお用ゐ居るも少なからずといふ。”

※明治3年(1870)には、丸木舟の数 389隻、 昭和52年(1977)に
は約40隻使われていたという。丸木舟は昭和20年代以降(真山神社
に展示されている丸木舟は昭和40年代のころの造船と思われる)も
造られており、男鹿では、寒風山、真山神社など複数の場所で展示
されている。

大人5人は乗船できる

「青春18きっぷ」を使っての「おくのほそ道」の旅を振返る

さてさて「青春18きっぷ」を使っての「おくのほそ道をゆく」旅。
芭蕉の「おくのほそ道」からは話が大分それてしまったけれど、
それはもとより計画のうち。
旅はまだ八日目であるが、残金はといえば、当初の予定していた
十万円は使い果たし、財布にあるのは、予備として取っておいた
三万円だけである。 そして「青春18きっぷ」 は残り三枚ある
(松島からは使いようがなかった)。

調べてみたところ(遅いわ!)男鹿駅から日本海側をJRを使って
関西に戻るには、細切れの乗り換えがあまりにも多く、民間にな
っている路線まで幾つかあるのだ。これでは何日かかるか分らな
いし、ホテル代が心細い。
やはり にわか仕込みの鉄道マニアになった気分だったけれど、
ちと無茶が過ぎた。暇は会っても先立つものがない、体力が残っ
ていない、そして持病の腰痛が再発した(首を回すことさえ辛い)。

ホテル探しで感じたことをいえば、泊まる前日か当日にネットで
調べても見つからない場合は、現地に着き、見当をつけたホテル
に電話をすることだ。案外これで見つかったので(旅慣れた人の
話でも そう)、やってみるのもありかも。
ちなみに わたしのホテル代の予算は、ビジネスホテルで素泊まり
5千円から6千円の範囲。予算内に収まったのは一回だけで、他は
8千円から1万円だった(立派なホテルだった)。

食事はといえば、夕食はコンビニで購入 (併せて朝食用のパン)
した おにぎりと缶ビール、昼食は ほとんど抜き(朝食用のパンが
残っていればそれを食べた)だった。
下着類の洗濯は、毎晩ホテル設置の洗濯機と乾燥機を使用した。
これは大分助かった。

「行き当たりばったりの旅」だったけれど、老人には体力面でも
経済面でも相当にキツカッタ。若いころ(五十年前)の寝袋持参
の旅とは、国内の様子が大分違っていた。まだまだ見て回りたい
ところは沢山あるのだけれど、残念ながら それはまた いつかの
機会にまわそう。

なので 「おくのほそ道をゆく」旅 (第一部!)を そろそろ終了
とする。第二部は近日中に公開予定ということで。
秋田新幹線、東海道新幹線を使っての帰宅はあっという間(とは
いえ7時間かかった)だった。
そして家に着いた時、財布の中身は空に ちかかった。

総括
1. 「行き当たりばったりの旅」 は、老人には 二三日が限度と
   心得るべし!
2. 旅の予算は十分に用意すべし!
3. できる限り事前に観光情報を得、ホテルなどは予約すべし!
4. 三食をしっかり摂り、土地の名物は味わってみるべし!