男鹿のナマハゲ伝説の地、 門前に赤神神社五社堂を訪ねる

男鹿半島に菅江真澄の足跡を見る

男鹿半島を旅していると、あちこちに「菅江真澄の道」という
標柱を見ることが出来る。半島だけでなく、この標柱は秋田県
のいたるところにあるようなのだ。

今回の旅は、松尾芭蕉の足跡を追う旅だが、菅江真澄の足跡を
たどる旅でもある。何のことはない、『菅江真澄遊覧記』第五
巻「男鹿の秋風」他を読み、はるばる関西から男鹿半島にまで
足を運んだのである。

ところで菅江真澄って誰? その問いに答えることは、そう簡
単ではないのだ。

JR男鹿線(なまはげライン)・男鹿駅

男鹿半島の南部に門前という漁港がある。この土地は、
中世の頃には赤神山日積寺永禅院の門前町として栄えた
ところである。
今、そこには赤神神社五社堂がある。鬼が一夜にして築
き上げたという999段の石段と男鹿のナマハゲ伝説に思い
を馳せて、わたしは門前に向う。

海の彼方に鳥海山を望む
潮瀬崎(真ん中にゴジラ岩がある)
帆掛島(男鹿半島最大級の一枚岩)

潮瀬崎ジオサイト

朝早い時間に門前行きのバスに乗る。SNSの人気スポット、秋田の
ウニ塩湖と呼ばれる鵜ノ崎海岸などを窓外に見る。終点は門前だが、
手前のバス停で下車し磯の景色を楽しみながら歩く。沖には秀麗な
姿の鳥海山がかすかに見える。途中の神社などでは「菅江真澄の道」
という記念碑をいくつも見かけたが、全て立寄るわけにはいかなか
った。

潮瀬崎では、夏休みに入っているので、家族で海岸キャンプを楽し
んでいる姿が目に入った。
潮瀬崎のゴジラ岩、双子岩帆掛島などの奇岩を眺めていると男鹿
半島の成立ち(火山活動)、日本列島が大陸から分離した創成期に
興味が湧いてくる。男鹿半島の地質については「ブラタモリ」の番
組で紹介されていたので記憶のある方もいるだろう。

帆掛島は、およそ3000万年前の火山噴火により出来た火山礫凝灰岩
だという。 また双子岩は、粗粒玄武岩でおよそ2000万年前に噴出し
たらしい。

男鹿のような岩礁の多い磯では、並の小舟では損傷が激しいので、
樹齢300年以上の秋田杉で丸木舟を造り、それを漁に使っていたと
いうから意外に思う。明治3年(1870)、その数 389隻というし、
昭和52年(1977)には約40隻使われていたようだ。 全て男鹿半島
産の杉でまかなったということにまた驚く。丸木舟の画像など詳し
いことは後ほど。

荒々しい磯の景色が続く

「ひるごろ雨があがったので、この晴れ間にと近くの小坂をのぼり、
琵琶の面(め)という磯におりたった。岩の姿も変化に富んで、寄
せては砕け散る波のしぶきに、またたぐいない光景を呈していた。
…波は白絹を千反も風に吹きなびかせたようで、千鳥は冬空かと思
われるほど寒々とした声で鳴いていた。」

※ 引用は全て『菅江真澄遊覧記』男鹿の秋風(文化元年・1804)
 より。現代語訳:内田武志氏

石碑の彼方には門前集落が見える
門前港

「なお磯辺づたいに行くと、眼をおどろかすばかりの潮瀬の岬
の眺めである。筆にもことばにも尽くしえない景観であった。
海越しに見わたすと、御寺の先や堂の軒端などがわずかに木の
茂みのなかに見えた。磯の岩は高い波にかくれたりあらわれた
りして、これまたおもしろい。
夕風にしぶかれて落ちる滝を竜蔵が滝というとのことである。
眺めながら、危うげに海に臨む岩面をふみ、山越の路をたどっ
て往来の道に出ると、門前という浦にはいった。」

なまはげ立像

門前のバスターミナルには高さ9.99mの なまはげ立像
がある。「ナマハゲ伝説」五社堂の999段の石段にちな
んだものという ^ ^
後ろの山の中腹に建つ建物は、 赤神山日積寺永禅院の
うち ただ一つ今に残る長楽寺。

門 前

中世には赤神山日積寺永禅院の門前町として栄えた港である。
さほど大きな集落ではないが数軒の宿がある。

五社堂入口 (遥拝殿 )
五社堂遥拝殿
五社堂参道
仁王門

前日に参道の草刈りをしたようで、赤神神社五社堂への道は
きれいに整備されていた。
かつての 赤神山日積寺永禅院(盛時9カ寺、48坊があり大伽
藍が建ち並んでいたという) の仁王門が見えた。仁王は運慶
の作というが、 現在の仁王はとてもそうは見えない。明治の
廃仏毀釈で打ち壊されたのだろうか。

「小橋を渡ると萱ぶきの堂があった。…自然石をたたんで御坂
としていた。これも一夜のうちに鬼が集まって築いたという物
語がある。

円仁(慈覚)大師が…この山で修行され、天台の仏法をもっぱ
ら行われて、 赤神山日積寺永禅院 といったが、近世になって
真言に改宗したという。そのむかしは自寂院・仙寿院・印象院
・円月院・照光院・泉光院などと寺々も多かったが、いまは吉
祥院・長楽寺ばかりが残っている。大門の二王は運慶の作であ
る。」

「菅江真澄の道」案内板

遥拝殿脇の石段を上ればすぐに四阿と案内板がある。隣には意外や
意外、広い駐車場と公衆トイレまで備えてあるので、団体さんが来
ることもあるのだろう。

四阿内の案内板

江戸時代初期に描かれた絵図を見ると、四阿のある場所には
鐘楼、そして池の西側には食堂があったようだ。そして参道
の両側には多くの寺があった。

永禅院跡の北側にある池

「食堂はいかめしく、蓮の生えている池の面になかばさしでて
作られ、ささやかな中島に弁財天女の小さな祠があって、松の
生いたっている風情はことにおもしろい。薬師仏・不動尊・地
蔵大士・普賢・十一面観音・釈迦仏・千手観音、あるいは伊勢
の神垣がある。」

真澄の文には、明徳3年(1392)に鋳られた大鐘や、元徳3年
(1331)阿部孝季が建てた多宝塔まで紹介されていて、当時の
赤神山日積寺永禅院の規模の大きさが推察できる。

池の北側には男鹿の絵図(複製)がある
狩野定信の描いた男鹿の絵図(山頂近くに五社堂)
ここにも寺があったのだろう

「むかしはこの山に天真穴(金杭)があったのだろう。葦倉泉元
といって、金を掘ったという谷がある。それは、所々にある岩窟
をみてもうなずかれた。蓮花台から西北の細道をたどって行くと、
古い塚原と思われるところがあって、苔むす五倫石・無縫塔など
が倒れ伏していたり、砕けたりしている中に、新しい石碑も茂る
草のなかに、たくさん立っている。
徐福の塚といって、わずかに埋もれ残っているところがある。」
『菅江真澄遊覧記』男鹿の島風より

鬼が築いた999段の石段
参道わきの石仏?
時おり日差しがさしてきた
遥拝殿から20分ほどで五社堂へ着く
御手洗の池跡
姿見の井戸
井戸の中を覗く

「坂をはるばるとのぼると、姿見の井がある。この水鏡が
くもって、姿がぼんやりとうつった人は命が長くない、と
いう水占いがあるという。」

わたしの姿はぼんやりとも映らなかった、ということは? 

五社堂

五社といって、五柱の神が並びまつられている。この五つの神社
はみな萱ぶきで、その様式はいまのものとは異なり、むかしを偲ぶ
ことができる。古いうつばりふだに、建武二年(1335)には安倍咸
季、応安五年(1372)に高季が修理を加えたとある。」

気温30℃を越える中、999段の石段を上り終えて五社堂に着いたこ
ろには全身汗だくであった。辺りにはだれもいないのでワイシャツ
を脱ぎ、Tシャツ姿で休憩、そして写真撮影にはいった。

菅江真澄って誰?

菅江真澄は江戸時代に三河で生まれれ育った人で、三十歳の頃
(天明の飢饉のころ)より陸奥を歩き、各地の人々の風俗を後世に
残す。当初、蝦夷の住む北の国を目指したが、なかなか蝦夷地に渡
れず、その間機会をうかがいながら陸奥を縦横に歩く。三内丸山遺
跡や十三湖(木造)の縄文遺跡の存在を早くから世に紹介している。

蝦夷地から本土へ戻って来ても津軽、下北、秋田をくまなく探査。
津軽藩では一時「お抱え医師」の任を受けていたこともある。晩年
は秋田藩、佐竹義和公の招聘で仙北地方の風俗を調査する。調査中
に角館で病没(文政12年 1829)。享年76歳だった。

各地を調査した文章のほとんどは、 佐竹義和公に寄贈され、それが
内田武志氏の現代語に訳されて、東洋文庫『菅江真澄遊覧記』とし
て残っている。その著作は民俗学や風俗の研究に貢献をしており、
柳田国男氏は菅江真澄のことを「日本民俗学の祖(おや)」と言っ
ている。

ひと言でいえば、四十五年にわたり漂泊の旅に一生をおくった本草家
・歌人・紀行作家なのである。姓名を幾度か変更し、謎の多い人でも
ある。

※後編に続きます。

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