「おくのほそ道」をゆく - 毛越寺に藤原三代の願いと七堂伽藍の姿を見る

     目 次
  1 毛越寺に平安王朝遺構の浄土庭園を観る
  2 藤原三代の願いは、人と獣と戦の犠牲になった霊を浄土へ
  3 杜甫の詩が日本人に与えた影響とは
  4 杜甫を師とした芭蕉
  5 芭蕉と杜甫の似ている点とは?
  6 芭蕉翁三等の文 ― 風雅の道筋には三つある

1 毛越寺に平安王朝遺構の浄土庭園を観る

さて中尊寺を出た芭蕉一行は、南部地方へ向って北上する街道を
はるかに見やり、道を南西に転じた。向うところは出羽の国。
当時は廃寺同然で建物は失われ、基壇だけが残っていたであろう
毛越寺には立ち寄らなかったのだろう。

毛越寺は中尊寺より南へ徒歩で半時間余りの距離にあり、途中に
は円錐形の金鶏山がなだらかな山並を見せている。そして毛越寺
の東隣には二代基衡の妻が建立した観自在王院(跡)がある。

わたしはと言えば、綺麗に整備された毛越寺庭園を見てみたい、
という思い(ただ写真を撮りたいだけ)が強く、それで立ち寄っ
たのである。

毛越寺本堂
南大門跡

大泉が池には、かつて中之島を中継し対岸の金堂へ渡る朱塗りの
反り橋を渡していたという。さぞ壮観だったことだろう。

大泉が池越しに常行堂を望む

広大な境内の規模を誇る毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)、
三代秀衡(ひでひら)が造営したものだ。当時の伽藍は中尊寺をしのぐ
規模だったという。
当時の堂宇は全て焼失し今に残っていないが、堂宇や庭園の遺跡が良好
な状態で残された。境内に足を踏み入れ、まず一番に目にするのは清々
しく映る大泉が池だろう。境内に広がる大泉が池は、平安時代の浄土庭
園の美しさを今に伝えている。

「この庭園は王朝の遺構としては日本で唯一つ、しかも最も大きく、
閑雅で豪宕(ごうとう)…藤原一族の建てた七堂伽藍の昔の姿はな
いが、ともかくみちのくの王者たちの気宇はまことに広大であった
らしい。」…田辺聖子氏

周回路

周回路を時計回りで進むとしよう。

大泉が池越しに鐘楼跡と常行堂を望む
大泉が池の西側には花菖蒲などが植えられている
築山、写真奥に開山堂が見える
開山堂
経楼跡より本堂を望む
経楼跡 (鼓楼跡とも)
常行堂へ向う道
遣水付近より本堂を望む
大泉が池越しに本堂を望む
遣 水
遣水は北側の山から流れ出て大泉が池に入る

修復整備された遣水では、毎年五月に「曲水の宴」が催される。

金堂円隆寺跡、写真奥には常行堂が見える

毛越寺の伽藍は金堂はじめ講堂、常行堂、南大門などを中心に建立。
金堂は金銀をちりばめ、紫檀赤木(したんしゃくぼく)などを継ぎ、
本尊は薬師三尊・十二神将像を安置したという。仏像の作成は運慶
だったというから、今に残っていたならさぞかし見事なご本尊を拝
むことが出来ただろうにと、残念で仕方がない。

常行堂
常行堂
州浜越しに池中立石と本堂を望む
州浜より鐘楼跡を望む
州 浜
出島と池中立石
大泉が池越しに 常行堂を望む

2 藤原三代の願いは、人と獣と戦の犠牲になった霊を浄土へ

奥州藤原氏初代清衡は、前九年合戦(1051~62)・後三年合戦
(1083~87)で九死に一生を得る。幾多の戦いで親兄弟、妻子
を含む多くの人々の悲惨な最期を見て来たに違いない。戦場は
文字通り血で血を洗う、まさにこの世の地獄だった。

どうしたら戦乱のない世をつくることができるだろうか。思い
悩んだ清衡は仏教に帰依し、やがて平泉の地に浄土思想に基づ
く仏国土をつくろうと決意したのだという。

奥羽の覇者となった清衡は朝廷に貢納を欠かさず良好な関係を
保ち、金山開発や交易に力を入れて財力を蓄えた。平泉は交易
をするには北上川を通じて太平洋に出ることが出来るという地
の利があった。また陸奥は世界でも最大級と言ってもよいほど
の金の産出地なのだった。

「やがて、国家鎮護のために平泉に寺院を建立する許しをもら
った清衡は、いよいよ仏国土づくりに邁進した。

金色堂が完成した2年後の大治元年(1126)、清衡が71歳のと
き、主要な堂宇伽藍ができあがったことを祝し、壮大な中尊寺
落慶供養が挙行された。

このとき清衡が読み上げた『落慶供養願文』には、『官軍や蝦
夷を問わず、また人だけでなく獣や鳥など犠牲になったすべて
の霊を慰め、極楽浄土に導きたい』と記されている。」
…岩手日日新聞社「岩手大陸」より

初代清衡の願いは二代基衡、三代秀衡に受け継がれている。

周回路

池の周りを一周し、大門跡に戻ってくると、木立の下に芭蕉の句を
刻んだ石碑のあることに気づいた。石碑があることは知ってはいた
が、芭蕉の あの句だったとは(何故この場所に?)。
ガイドさんが、団体の方々に石碑の説明をしていなければ見落とす
ところだった。


     夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡


この句は芭蕉の代表作の一つである。芭蕉は杜甫の「春望」を頭に
描いて句をつくったのだろう。芭蕉の笈(おい)のなかには西行の
歌集とともに、いつも杜甫の漢詩が入っていたであろう、そう思わ
ずにはおれない。
芭蕉は当時の俳諧師のなかでは読書家であった。唐時代の詩人の本
をたくさん読んでいたことは、芭蕉の句や俳文を読むことによって
思い至る。

3 杜甫の詩が日本人に与えた影響とは

詩聖と讃えられる杜甫の漢詩は、日本の義務教育の教科書にも取り
上げられるほどなじみ深い。とりわけ知られているのは、安禄山乱
時の歌「春望」である。芭蕉も高館で引用しているし、わたしの好
きな詩でもある。ところがこの詩は杜甫のもっとも有名なものであ
るが、特にすぐれている詩ではないのだという。

この詩を有名にしたのが、芭蕉の『おくのほそ道』であることは疑
いない。芭蕉のほかに杜甫から影響を受けた日本の文学者の中には、
蕪村、島崎藤村、正岡子規、萩原朔太郎など数えきれないほどいる
ようだ。

中国を除いて杜甫の熱烈な読者をもったのは日本だけだろう。藤村
の『夜明け前』では、「木曽路はすべて山の中である。」ではじま
る。この一節は木曽路をひと言で表していて、さすが藤村だなぁ、
と長年感心していた。これとほぼ同じ文面を杜甫の中に見つけたと
きは、これだったのか、と思ってしまった。その他にも藤村の作品
には杜甫の影響を受けたと思われる所がいくつか見られるので、熱
烈な読者だったのではないだろうか。

生前は無名だった杜甫?
杜甫の詩は、生前にはほとんど世間で認められていなかった。杜甫
を尊敬し、その詩を認めていたのは一部の文学者に限られていたの
だという。杜甫がはじめて大詩人としての地位を占めるようになっ
たのは、死後三百年を経てからだというのだから、大バッハ同様、
一旦は忘れ去られ、後世になり掘り起こされて一般に知れ渡るよう
なった、という話はよく耳にするが、杜甫もその一人だったのであ
る。

日本で杜甫などの漢詩が読まれるようになったのは、はじめ遣唐使
の僧侶が唐から本か詩の写しを持ち込み、一部の僧侶のあいだで読
まれていたようだ。それが江戸時代寛永年間に明の『杜律集解』
(とりつしっかい)が翻刻されたことで、元禄時代には杜詩の流行
が最盛期を迎えたらしい。その頃に芭蕉も杜甫の漢詩に親しんだの
ではないだろうか。

4 杜甫を師とした芭蕉

そこで疑問に思うことは、どこが良くて芭蕉は杜甫の詩に親しんだ
のだろうか。 同時代で杜甫の友人でもある、李白という大詩人もい
た(こちらも若いころより各地を旅した)のにである。 はじめわた
しが思ったことは、その境遇が似ていたからだ、と想像した。そし
て双方とも旅に人生を費やし、文芸にその一生をかけたという共通
点がある。またどちらもちょっと堅い感じの詩と句を詠む。そんな
ところが好きだったのかな、と簡単に考えた。

杜甫の詩が好きだったから、とは単純には言い切れないところがあ
る、と小説家で芭蕉研究者の幸田露伴は言う。

「鎌倉頃から……禅僧なぞを通じて、詩文の方面では杜詩などが尚
ばれだした。……芭蕉のころには唐、宋から元・明の文学までが我
邦へ押寄せてゐて、望み次第に好きなものが取れた時であり、
…又一般の公論とで杜詩の尊重されてゐたことは論の無い事であっ
た。恰も王朝で白楽天が第一の者と思はれてゐたやうに、其後は杜
甫崇拝になってゐたのだ。此の大勢及び禅僧等の伝承的の勢で、詩
といへば杜少陵といふことになって居り、又実際に大陸の正しい定
論が背後に厳然と聳えてゐたのと、芭蕉の正しい詩眼批評眼とが、
杜詩を選んで芭蕉の一生の友とさせたのだろう。」
…露伴『芭蕉と西行・杜子美・黄庭堅』より

5 芭蕉と杜甫の似ている点とは?

「芭蕉と杜小陵と甚だ似たところが無いでは無い。これは芭蕉の天
性に出たか、それとも杜小陵先生を朝夕の友としたによって得たと
ころであるか知らぬが、其の相似たる一点は確に芭蕉をして其の深
さと大さとを成さしめたものである。それは何かと云ふと、詩的良
心、芸術的良心を欺かないで、如何にも其の真気を保ったことであ
る。
若し杜小陵と芭蕉との似たところを挙ぐれば、唯此一点は酷だ相似
て居る。……芭蕉は平生一句一語にも三思九思してゐたのである。
…実に芭蕉は老杜と同じく其の崇高な芸術的良心の火炎を盛んに熾
して絶ゆる間なく一生を終わったのである。で老杜の詩は規格森厳、
芭蕉の句は精神充溢してゐるのである。……俳句は微なものである
が芭蕉の語は下すおのづから来歴有り、西行を学んだと云はれても
西行の声を似せ貌を肖せては居ない。芭蕉の親しむだ三人に於て、
自分は芭蕉の或点を看得る気がする。」
…露伴『芭蕉と西行・杜子美・黄庭堅』より

さすがに大小説家にして芭蕉研究者ともなると、凡人の見るところ
とは相当に違っていて深い。

夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉の真筆と伝わる石碑 (左側)

6 芭蕉翁三等の文 ― 風雅の道筋には三つある

芭蕉一行は平泉を去った。わたしもそろそろ平泉を去るとしよう。
その前に、
芭蕉は愛弟子曲水にあてた手紙に、俳諧に携わる者のありさまを
三つに分けて論じているので、それをここで紹介したい。


「風雅の道筋にはだいたい三通りある。
一つは、連句の会に句点を多くとって、賞品をもらうのを楽しみ
とする点取俳諧に、昼夜をついやし、勝負をあらそい、俳諧の道
をわすれて、諸方の句会を走りまわる者。これ等は俳諧のうろた
え者というべきだが、彼等によって連句の採点をする宗匠は、妻
子の腹をふくらませ、会費をとる主催者側は、懐をこやすことに
なるので、曲事をはたらくよりはましだと言える。

二つは、俳諧を道楽とする金持衆である。彼等は俳諧をあそびご
とにしていれば、世間の評判を気にしなくてもよいし、暇つぶし
に他人の噂をしたり、陰口をきいたりせずにもすむ。彼等は一日
一夜の間に、二巻でも三巻でも連句をおこない、点取りに勝って
も誇らず、負けてもさして腹立ったりはしない。そしてさぁもう
一巻などと言いだして、線香の長さ五分燃える間に一巻をしあげ、
すぐ宗匠に採点させて、たがいの成績に笑い興じている。こうい
った連中は会の出席者に、料理や酒を存分にふるまって、貧しい
者をたすけ、点者の宗匠を太らせるので、これ又俳諧の道をおこ
す一助にもなろうか。

三つは、真の風雅をこころざす者をいう。とおく定家の和歌の骨
髄をたずね、西行の風格ある歌筋をたどり、白楽天の詩腸をあら
い、杜甫の詩壇をさぐって、情をやしない心をねり、まことの道
に入る便りとすることだ。

しかし、これに努めるやからは、都鄙をつうじて、十指をかぞう
るにたらない。曲水はその中に入るべき者、よくよくつつしんで、
修行に励むのが肝要である」
※ 現代語訳:中山義秀氏


わたしは「俳諧」という文字を「芸術」と言い換えて読んだ。

※ 続きます