芭蕉の「おくのほそ道」をゆく - 深川を立ち、白河の関を尋ねる

都をば霞と共に立しかど秋風ぞ吹く白河の関

 松尾芭蕉とはいったい何ものか?

松尾芭蕉とはいったいどのような人だったのだろうか。芭蕉は、
ある人には神と尊ばれているようだ。翁は若い頃より故郷の伊賀
上野で俳諧に親しんでいたと伝えられている。では俳諧とは何な
のだろう。松尾芭蕉そして俳諧というものを知りたくなり、この
夏私の住む関西から陸奥へ「青春18きっぷ」(さすがに徒歩とい
うわけにはいかない)を利用し芭蕉翁の足跡を訪ねた。

題して「おくのほそ道」をゆく。ザックの中には購入したばか
りの文庫本『おくのほそ道』、『菅江真澄遊覧記』三冊、大判
の鉄道時刻表、そしてカメラと数日分の着替え、この日のために
購入した第五世代の iPad mini 7.9inch (使い方は電車の中で覚
えよう!)。ザックの重みが「瘠骨の肩」にズシリときた。

旅の予算は十万円(連合いから提示された旅費はこれだけ!
ほかに予備費として へそくり数万円 )。

訪れる歌枕のポイントだけは選び、旅の期間は特に定めていない。
泊まるホテルや旅館も決めて居らず、行き当たりばったりの陸奥
一人旅である。松尾芭蕉と西行、そして連歌師宗祇、さらには源
義経とのかかわりを探る旅でもある。
それでは「おくのほそ道」をゆく、の幕開けです。

    草 の 戸 も 住 み 替 は る 代 ぞ 雛 の 家


芭蕉はこの句を表八句のつもりで採茶庵(門人杉風-さんぷう-の別宅)
の柱に掛けて置いたという(写真はイメージ)。

芭蕉の門人たちは前の晩から集まっては別れを惜しみ、船に乗り千住
まで送ってくれた。

   行 く 春 や 鳥 啼 き 魚 の 目 は 涙

宿場町千住もだいぶ変わってしまった。この道をまっすぐ行くと
日光街道に出る。芭蕉と曾良はその道を日光へ向って歩いた。


日本人なら一度は耳にしたことがあるだろう…

” 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり “


ひとつの旅を終えれば また次の旅が恋しくなる。
「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」などの旅を
終えた芭蕉には、西行や宗祇の後ろ姿が夢に出て来ては消えていく…
みちのくの歌枕が呼んでいる…

そして…長年の想いを実行へ移す時がきた。

” 羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天明なり “

この文章には芭蕉の強い意志が感じられる。
元禄2年(1689)3月27日、太陽暦5月16日、芭蕉は深川を
立つた。芭蕉46歳の年である(わたしの息子の歳と近い)。
わたしには芭蕉翁ほどの意志はなく、観光気分で東京(二日間滞在)
を立った。

何やら怪しげな雲が出てきた。旅の前途を暗示するかのように…

芭蕉一行は日光を経て那須野にいたり、黒羽の城代家老浄法寺なにがし
のもとを訪ねた。この地で二週間を過ごし、名所旧跡を案内され、とも
に俳諧を楽しんだことであろう。
また芭蕉の禅の師匠の仏頂和尚の修行した雲巌寺を訪ね、「石上の小庵、
岩窟に結び掛けたり」という縦横五尺にたらぬ小屋を見る。
そして黒羽から殺生石に出かけた。城代家老浄法寺殿が馬を出してくれ
た。

殺生石を50年ほど前に見たことがあるが、白っぽい大岩が荒涼とした原
野に置かれてある、という趣であった。

また、西行法師が「清水流るる柳かげ」と歌に詠んだ柳は、蘆野の里に
あって、今に残っている。芭蕉は今日こうして、その何代目かの柳に相
対することができた。
  

    田 一 枚 植 ゑ て 立 ち 去 る 柳 か な

まさか芭蕉翁が田植をしたとは思えないのだが(写真は白河市郊外)

陸奥に歌枕を探す

もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。
“いかで都へ”と便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一
にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、
青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪
にも超ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の
筆にもとどめ置かれしとぞ。」

    卯 の 花 を か ざ し に 関 の 晴 れ 着 か な(曾良)


白河関址と伝えられるものは何か所もあるので、芭蕉一行はどれが古
の白河の関址か尋ねまわったでことであろう。白河の関は五世紀前半
頃に設置され、蝦夷に対する防衛拠点であった。八世紀の末に縮小、
平安中期には廃止されたと伝えられているので、芭蕉一行がいくら尋
ねまわっても、数百年の時の差は大きく、関址の発見は徒労に終わっ
たのではないだろうか。


陸奥の歌枕には白河の関のほかに松島・塩竈の浦・壺の碑・武隈など
四十六か所に上がる歌枕の名があるという。芭蕉翁を「おくのほそ道」
に駆り立てたものは、陸奥の歌枕にあったことは当然として、
能因法師、西行法師、それに宗祇や源義経の足跡を追い、先人の思い
を吾が身をもって探りたかったのではないだろうか。

白河の関は「街道にのぞむ三千坪ほどの丘陵地帯に、柵をめぐらせ
壕をほり土塁をきずいて、軍団の兵士五百人が防備にあたっていた。
関の北一里半の関山とそれよりさらに遠く、阿武隈川かなたの烏峠に、
二つの監視所をおき、蝦夷が来襲した場合、狼煙をあげて危急をしら
せた」という。…中山義秀氏 

「烏峠」(泉崎村)には、相当以前に わたしも登ったことがある。
標高500メートルほどの小高い山がに防塁のように連なり、ひときわ
尖った山なので遠目にすぐ分かる。頂上にはたしか神社があったはず。
峠の北には 装飾横穴古墳で 名高い「泉崎横穴古墳」があり、 6世紀
後半から8世紀初めまでの白河地方の中心地はこの一帯だったのでは
ないかと推定されている。


泉崎横穴古墳(国指定史跡)
烏峠の北東、泉川左岸の段丘に造られた横穴古墳。昭和8年、道路拡
張工事の際に発見された7基(6基は「消滅」)の内の一つ。東北で
初めて発見された装飾横穴古墳で側壁、天井部などに人物や馬、抽象
文などが赤い顔料で装飾されている。
古墳は6世紀末から7世紀初頭の築造ではないかと言われている。
わたしは子どもの頃、大人の中に紛れ込み横穴に入ったことがあるが、
内部はとても狭かった覚えがある。

ここで宗祇が白河の関にいたった『白河紀行』をほんの一部だけ紹介
したい。芭蕉の文との比較が面白い。
※室町時代の連歌師・宗祇を芭蕉は私淑していた。


「白川の関にいたれる道のほど、谷の小川、峯の松風など、何となく
常よりは哀れふかく侍るに、このもかのもの梢、むらむら落ち葉して、
山賤(やまがつ)の栖(すみか)もあらはに、麓の沢には霜枯れの葦
さげ折れて、さを鹿の妻とはん岡べの田面も、守人絶えて、かたぶき
たる庵に、引板(鳴子)のかけ縄朽ち残りたるは、音するよりは寂び
しさ増りて、人々語らひ行くに、奥深き方より、ことに色濃く見ゆる
を、あれこそ関の梢にて侍れと、しるべの者教へ侍るに、心空にて駒
のあしをはやめ急ぐに、関にいたりてはなかなか言の葉にのべがたし」

また、次のような歌を詠んでいる。

  都いでし霞も風もけふみれば跡なき空の夢にしぐれて

かくして越え行くままに、阿武隈川を渡る。左に会津根高く、
右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山連なる。
影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影うつらず。」

    風 流 の 初 め や 奥 の 田 植 ゑ 歌

須賀川市郊外の田んぼ。遠くに見える山並みは阿武隈山地である

みちのくの浅香の沼の花がつみかつ見る人に恋ひやわたらむ(古今和歌集)

窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮(日和田)の宿を離れて、
浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころも
やや近うなれば、いづれの草を花がつみとはいうふぞと、人々に
尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ  “かつ
みかつみ” と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右
に切れて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」


花がつみはシャガに似た花でヒメシャガというようだ。幻の花と
いわれ、郡山市の花に制定されている。

黒塚の方角を望む。「安達ケ原」というより開墾地のさまのよう

   笈 も 太 刀 も 五 月 に 飾 れ 紙 幟(のぼり)

藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と
聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が
旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落とし、ま
たかたはらの古寺に一家の石碑を残す。…寺に入りて茶を乞へば、こ
こに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。」


義経の太刀と弁慶の笈も紙幟といっしょに飾ってほしい、という気持
ちから出た句だろうか。芭蕉翁の義経に対する思いは熱い。その思い
は後々ひしと伝わってくる。
正面に見える山は安達太良山。上三枚の写真は二本松城跡で撮影。

都を立ったのは祇園祭のころ
わたしが都を立ったのは春霞のころにあらず、まだ梅雨も明けきらぬ
七月の半ば過ぎのこと。鉾町ではコンチキチンの鉦の音が鳴り響いて
いた。そして「青春18きっぷ」の発売前だった。なので東京までは思
案の末東海道新幹線を利用したのだった(新幹線の運賃と特急料金は
予算の少ない旅には痛かった)。さすがに老年の身には夜行バスは辛
かろうと考えてのことである。

「おくのほそ道」出発点の東京で二日間、そして白河で一日、つれづ
れなるままの日を過ごした。(上野から白河までは在来線を乗継
ぎ四時間余り かかる)。 貧乏旅行ゆえ宿は親戚の家を頼った。

陸奥歌枕の地を訪ねる

ここでこれからの旅程を紹介したい。

①塩釜の町散策、陸奥第一の神社である塩釜神社参拝
②松島雄島散策、瑞巌寺参拝
③一関でジャズ喫茶 “ベイシー”詣で。猊鼻渓観光
④中尊寺(金色堂)、毛越寺参拝
⑤盛岡の町で古民家と洋館見学
⑥角館で武家屋敷を見学
⑦鹿角へ内藤湖南先生の生家を訪ねる
⑧男鹿半島、門前へ赤神神社五社堂参拝
⑨秋田市土崎(同人誌「種蒔く人」発祥の地)散策
⑩酒田市で本間美術館、土門拳記念館見学
⑪象潟へ往時を偲ぶ
⑫ 羽黒山参拝
⑬立石寺参拝

そして日本海沿岸の在来線を通り都へ戻る…
う~む てんこ盛りの旅程だ。これでは「青春18きっぷ」が何枚必要やら !?


体力の限界が先か、それとも先立つものが乏しくなり旅を切り上げる
のが先だろうか。旅は始まったばかりなのに不安ばかりが募る。
芭蕉翁のように
「羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、 これ天の命なり」
というような覚悟もない わたしなのだ。



※昨年投稿した『松尾芭蕉 「奥の細道」(東京-塩釜)を青春18きっぷ
でゆく旅』のレイアウトが崩れたため、今回加筆・再編集しました。
※一部古い写真を使用しています。

芭蕉の「おくのほそ道」をゆく - 塩竈神社編」へ続く。