河合神社に鴨長明「方丈庵」と小野小町の面影を観る

神様は忙しい?

近ごろ若い女性のあいだで神社めぐりを始めたという話を耳にする。なにかと窮屈な都会生活を離れ、楽しみとして地方を訪れ、日ごろのお礼かたがた神社で御朱印をいただくというのも 有難みがあっていいかもしれない。

わたしも神社仏閣めぐりが好きなので気がつくことがあって、数十年前は閑散としていた神社だったのだが、久しぶりに訪ねてみると若い女性で境内はいっぱい、ということを幾度となく経験している。

余計なお世話だが、神官といえど生活がある。多少は 田地や 初穂料などの収入があるとはいえ、月極駐車場、あるいは賃貸 マンションなどの不動産収入がなければ生活が成り立たないことは分かるような気がする。

で、神社の方もあの手この手で参拝者が増えるよう考えているようなのだ。
ここに紹介する河合神社も、その例に漏れないようで、近年美麗を求める老若男女(?)で大流行り、数十年前の閑散とした境内がウソのように思える。

賀茂御祖(かもみおや)神社、通称下鴨神社と呼ばれ親しまれている神社の第一摂社が河合神社である。糺の森(ただすのもり)南西に鎮座しており、御祭神は玉依姫命(たまよりのひめみこと)で神武天皇の母君である。

御祭神は世の女性の 美麗祈念にこたえてくれるほかに、良縁・安産・育児などなどの御利益があるのだとか。この神社のユニークなことは手鏡の形をした絵馬を奉納(自分の祈念・希望する顔を化粧)するところにある。

河合神社ゆかりの鴨長明、その人と住まい

「私の生涯、それはこんなふうだ。まず、父親のほうのおばあさんの家屋敷をうけついで、長い間、そこに住んでいた。ところがその後、縁が切れてしまって、落ち目になり、いろいろと思い出は多かったけれど、結局は、そこに居すわることができなかった。三十歳をすぎてから、改めて、自分の気ままで、一軒の小さな家を建てた。この家を前の住宅と比較すると、十分の一の小さなものだ。ただ、自分のねおきする家だけを造って、ちゃんと付属の家屋を造るまでにいかない。やっと土塀はつくったが、門を建てる資力がない。竹を柱として、仮に車を入れておく。これでは、雪が降ったり、風が吹いたりするたびに、危険がないわけではない。場所が、鴨の河原に近いものだから、水害の危険も多いし、盗難の心配もすくなくないありさまだ。」

方丈の庵

「さて、私は六十歳という、きわめてはかない生涯の晩年になってから、また改めて、余生を託すための家を造ることになった。それは、たとえていうと、旅人がただ一夜のために仮寝の床をつくり、年老いた蚕がせっせと繭を作るようなものだ。この家を、私の生涯の中ごろに河原近くに造った家と比べてみると、今度はまた百分の一にもならない。こんな愚痴をとやかく述べているうちに、年齢は毎年毎年かさみ、住む家は移るたびごとに狭くなっている。

私が前に比べて 百分の一 というその家の様子は、普通の家屋とはまるで似ていない。家の広さはやっと三メートル平方だし、高さは二メートルそこそこである。私は終生ここに住もうなどと、場所を決めていないのだから、宅地を選び定めて、そこに家を建てるなんていう普通のやり方をしない。土台を組み、簡単な屋根を造り、木と木のつなぎ目ごとに、つなぎ留めの金具をかけてある。こうした考案は、もし、この土地が気に入らないことがあれば、容易に他の場所へ家を移動させるためである。その家を造りかえることに、どれほどのやっかいがあろうか。車に積むと、わずかに二台分であり、車の借り代を支払う以外には、まったくほかの費用はかからないのだ。」

「いま、日野の山の奥に、隠れ住んでからは、方丈のいおりの東側に一メートルたらずのひさしをさし出して、柴を折って、もやす所とする。南に竹のすのこ板を敷き、その西に閼伽棚を作り、北側に衝立て障子をへだてとして、阿弥陀如来の絵像を置き、そのそばに普賢菩薩の絵像をかけ、前に法花経を置いてある。いおりの東側のはしに、わらびの穂のほうけたのを敷いて、寝床とする。

西南のかどに、竹のつり棚をこしらえて、黒い皮張りの箱三つを置いてある。これには、和歌・音楽の書物、往生要集というようなものの抜き書きを入れてある。そのそばに、琴と琵琶をそれぞれ一面ずつ立ててある。おり琴・つぎ琵琶というものが、これである。仮住まいのいおりのありさまは、このようである。」
※『方丈記』簗瀬一雄氏:現代語訳

「方丈記」に事寄せる

われ、ものの心を知れしより、四十(よそじ)あまりの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事ややたびたびになりぬ。

・バブル経済崩壊 平成3年(1991)

・ 阪神・淡路大震災
平成7年 (1991) 1月17日05時46分、まだ夜も明けぬ暗いうちに兵庫県淡路島北部の明石海峡付近を震源とする、マグニチュード7.3(震度7)の大地震が発生した。近畿圏の広域に大きな被害を及ぼしたが、中でも神戸市市街地の被害は甚大で高速道路・ビル・駅舎などの倒壊数えきれず。その後に発生した火災で焼け出された人々夥しく、家屋の下敷きになり生きたまま焼かれた者数多あり、これこの世の地獄と覚ゆ。

われ、突き上げる振動にこの世の終わりかと覚え、童を寝床の中より引きずり出
し、危うく箪笥の下敷きになることを免れる。阪神・淡路大震災の死者6,000余
人なり。
 

・地下鉄サリン事件 平成7年 (1991) 3月20日

・JR福知山線脱線事故 平成17年(2005)

・東日本大震災・福島第一原子力発電所事故 平成23年(2011)3月11日14時46分ごろ

三陸沖の太平洋を震源とする地震でマグニチュード(Mw)9.0、日本の観測史上最大規模、第二次世界大戦後最悪の自然災害と言われている。この地震により大規模な津波が発生、北海道から関東地方の太平洋沿岸でも大きな被害をもたらした。この地震と津波により12都道府県で1万8000余人の死者・行方不明者を出している。蛇足であるが、わが実家はこの地震により半壊、縁者の家には全壊したもの、津波により流された家もあり。つくづく地震に縁が深いようだ。

なお、この大地震と想定外(?)の津波被害により、 福島第一原子力発電所が 全電源喪失に陥った。このことにより原子炉内部などへのポンプ注水(冷却水)が不可能となり、結果炉心溶融(メルトダウン)が起きたという。その影響で原子炉建屋、タービン建屋内部に水素が大量発生し充満、原子炉1・3・4号機はガス爆発に至った。

ベント、水素爆発、格納容器の破損、冷却水漏れなどにより、大気中、土壌、溜まり水、立坑、海水、および地下水へ放射性物質が放出された。大気中に放出された放射線物質は、希ガス、ヨウ素131、セシウム134、 セシウム137などである。さまざまな方策を講じるも、汚染水が地下水に混じり今でも海に漏出し続けている。

また1号機の水素爆発の後、 第一原発から20km以内へ避難指示が出された。県外へ避難した被災者の数は現在でも3万人以上 いるとも。


・平成30年 (2018) 台風第21号 9月14日 日本上陸

・ 新型コロナウイルス(令和2年の疫病) 蔓延
また令和2年 (2020)中国武漢起源とおぼしき伝染病( 新型コロナウイルス )蔓延す。政府の新型コロナ感染予防対策は、先手どころか当初から何を考えていたのかと思うような後手にまわり感染が拡大する。さらには朝令暮改の手本までを見せてくれたのである。「アベノマスク」配布、「GO TOキャンペーン」など実施するも、政府の方策これみな(?)裏目裏目に出て国民の評判かんばしく非ず。「感染防止」と「経済を回す」という相反するような困難な命題に頭を抱えた結果、国内津々浦々に伝染病が広まったのである(政府や行政の責任ばかりに非ず)。これ奇しくも養和2年(1182)の疫病に似たり。

古代ギリシャや古代ローマ帝国を滅亡に導いた一要因とも伝えられる流行病、歴史に残るこの疫病、今日現在、都市部を中心に第二波の流行期に入ったとも言われる。私のような老人は、はたして「アフターコロナ」の世界を見ることが出来るのだろうか。先に浄土(冥途?)を見ることになりはしないだろうか。

小野小町の言い伝え

絶世の美女と伝えられる女人に小野小町がいたことは誰もが知っていること。その小野一族は古代山城地方北部(下鴨神社から北の方)を近江から山を越えて山城北部を生活圏としていたことがあるようなのだ(賀茂一族と同じころか、あるいはもう少し古い時代のことかも知れない。高野にある「小野神社」からは、小野毛人の銅板が出て国宝に指定されている)。

その小野小町が晩年に過ごしていたと伝えられている寺が上賀茂神社からもう少し北、市原というところにある。その寺(小町寺・補陀洛寺)には老年になった小町像の絵がある。どのような絵かは読者の想像に任すとしよう。

さて本題に近づいた。小野小町がどこで生まれてどこで亡くなったかは、地方にあまた小野という地名があり、諸説あるというか、伝説のようになっていてサッパリ分らない。ここで河合神社に関係の深い鴨長明に登場いただいて一説を紹介していただこう。


❝「在原業平朝臣は…歌枕を見ようと、風雅のふるまいにかこつけて、東国の方へ旅をした。みちのくに至って、八十島というところに宿った夜、野の中で歌の上の句を詠吟する声が聞こえる。その言葉は、

  『 秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
  (秋風が吹くにつけても、ああ、目が痛い、ああ、目が痛い)

という。不思議に思って、声のする方を尋ねてさがしたが、全く人などいない。ただ死人の髑髏が一つある。翌朝になってなおもこれを見ると、その髑髏の目の穴からすすきが一本生え出ていた。そのすすきの風になびく音がこのように聞えたので、不思議に思って、そのあたりの人にこのことを尋ねた。すると、ある人が、『小野小町がこの国に下って、この所で命をおえた。あの髑髏はとりも直さず、この小町のものだ』と語った。


そこで業平は、あわれに悲しく思われたので、涙を抑えながら、あの上の句に下の句を、

  『 小野とはいはじすすき生ひけり
  (これを小野小町の髑髏などとは言うまい。野にはすすきが生えているばかりだ)と付けた。その野を玉造の小野と言った」ということでした。

玉造の小町と小野小町とは同一人物か別人かと、人々がはっきりしないと言って論争しました時、ある人が語ったことです。❞

※『無名抄』鴨長明「 小野小町とはいはじといふこと」

さらに小野小町の詠んだ歌

をののこまち

  今はとて わが身時雨にふりぬれば 言の葉さへに移ろひにけり


返し  小野さだき(貞樹)

  人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまにちりもみだれめ


【今ふうに訳すと】
昔いた、恋をすることの好きであった女が、自分に嫌気がさしてきた男の所へ詠んでおくった歌、

 「今はもう季節もになって 時雨が降ってくると木の葉が散っていく。それとともに、私もしだいに古びてきたので、そろそろ飽きが来たというわけで、木の葉のみならず優しかったあなたの言葉さえも色あせて変ってしまったことですね。」…小野小町


返しの歌

 「あなたを思う私の気持ちが実のあるものでなく移ろいやすい花のようなうわついたものであれば、風が吹くのにまかせて散り乱れもするでしょう。でも私は誠実な気持ちですから、ふわふわと他に心を移すようなことはありませんよ。」… 小野さだき(貞樹)


※『伊勢物語』(『古今和歌集』巻第十五)阿部俊子訳
【補説】「いつまでも あるとをもうな をやとびぼう」 「をとこ心と秋の空」

歌人は証徳すべからざること — 歌の心得

俊恵法師と和歌の師弟関係となる約束を交わしました当初、彼が言った言葉に、「歌にはこの上ない昔からの心得があるのです。私を本当に師と信頼なさるのならば、このことを守っていただきたい。あなたはかならずやこの先の世の中で歌の名人でいらっしゃるに違いないうえに、このように師弟の約束をされたので申すのです。

決して決して、自分が他人に認められるようになったとしても、得意になって、われこそはという様子をした歌をお詠みなさいますな。決して決してしてはならないことである。後徳大寺左大臣藤原実定公は並ぶもののない名手でいらっしゃたが、その心得がなくて、今では詠みぶりが劣ってこられた。以前、前大納言などと申し上げた時、歌の道に執着し、他人の目を気にし、切磋琢磨された時のままであったならば、今では肩を並べる人も少ないであろう。……」

※鴨長明『無名抄』…久保田 淳氏:現代語訳

鴨長明は、歌人であり音楽家であった ! ?

鴨長明(ながあきら)は、当時の貴族の間では名の知られた歌人であり音楽家であった。
父は鴨長継、下鴨神社の摂社である河合社(ただすのやしろ)の禰宜から昇進して下鴨神社の禰宜となり、社司全員を統率したという。
長明には兄がいたこともあり、父方の祖母の家を継ぐことになった。長明の生涯は、父長嗣の早逝により大きく転回する。父が亡くなったことによるものか、「祖母の家との縁が切れ」、後鳥羽院の後ろ盾があっても、河合社の職をも得られずじまいであった。弱り目に祟り目である(長明の気の強さが影響したのだろうか、と勝手に想像しているのだが)。救いは長明の歌が世間で評価され出したことだろう(千載和歌集に一首入ったことをとても喜んでいる)。

なぜ長明は「出家」したのだろうか?
それは本人が語らないので、はっきりとは分からない。当時、「河合社の禰宜事
件」というものがあり、下鴨神社の神事への奉仕が乏しい長明を河合社禰宜に補
することには反対、と言う強い訴えがあり、長明が禰宜になることは出来なかっ
た。それではと後鳥羽院は別の小さな氏社を官社として、長明をその社の禰宜に
補そうとしたが、長明はそれを断ったようなのだ。
これをきっかけに、その後「出家」して大原に住み、後には日野に住むようになった。
出家したといっても、自由自在に自分の足を頼りに野山を、市中を、平清盛が先導した遷都先までも縦横に歩き、観察し、「人のいとなみ皆愚かなる中に…」と述べている。『方丈記』ではすべてが無常観で満たされている。

だが、注意しなければならないことは、詠嘆的・無常観ともとれる長明の文章だが、もう一方でリアリズムをも備えているということだ。我々は、『方丈記』によって歴史の一端を知ることが出来る。つまり長明の「自己の体験した安元三年(1177)の大火、治承四年(1180)の辻風、同年六月の遷都事件、養和年代(1181-1182)の二年にわたる飢饉および大地震と、ひきつづいて、つぎつぎたたみかけるように、都を中心とする悲惨な自然的災害や社会的事件を展開してゆく。短編『方丈記』のなかば近い部分が、これらの否定的事件を、ほとんど絶望的に追及することについやされている。そうして、これらの精細で克明な叙述の結果、作者が到達したところは、『すべて世の中のありにくゝ、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなりさま、またかくのごとし。』という結語であった。」…『方丈記と徒然草』永積安明氏

それにつけても『方丈記』冒頭の数章が思い起こされる。