上賀茂神社 ― 明神川流るる(鴨長明のことなど)

京都市の東部、洛中と洛外の結界ともいえる清冽な流れに鴨川がある。
鴨川は上流にさかのぼると、高野川との合流点で「賀茂川」と名を変
える。ふたたび上流へさかのぼり、こんもりとした小高い岡が左岸に
せまってくると、その場所に上賀茂神社、正しくは「賀茂別雷神社」
(かもわけいかづちじんじゃ)が鎮座する。

神社は平安遷都以前、この地を支配していた賀茂氏を祀る神社である。
境内には、賀茂川を源とする明神川、そこへ合流する御手洗川と御物
忌川の清らかな流れが数千年の時を越えて流れている。

楼門と玉橋
橋 殿

❝ ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消え、かつ結びて、

久しくとどまりたる例(ためし)なし。

世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、

高き、賤しき、人の住ひは、世々を経て、尽きせぬものなれど、

これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。

或は去年(こぞ)焼けて、今年造れり。

或は大家亡びて、小家となる。住む人もこれに同じ。

所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、

二三十人が中に、わづかに一人二人なり。

朝(あしたに)死に、夕(ゆうべ)に生るるならひ、

ただ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。

また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、

何によりてか目を喜ばしむる。

その主と栖(すみか)と無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異らず。

或は露落ちて、花残れり。

残るといへども、朝日に枯れぬ。

或は花しぼみて、露なほ消えず。

消えずといへども、夕を待つ事なし。

予(われ)、ものの心を知れりしより、

四十(よそじ)あまりの春秋をおくれる間に、

世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。❞


鴨長明『方丈記』より

方丈記の冒頭の一章は、下鴨神社のところで書こうと思っていたのだが、
明神川の流れをしばし眺めていると、長明の言葉が頭から離れなかった。

岩本社

❝ 賀茂神社の末社の岩本・橋本の祭神は業平と実方である。
人が二社の祭神をよく混同するので、ある年参拝したおり
に、とおりかかった年配の神官を呼びとめて、このことに
ついて尋ねたところ、
「実方を祭ったのは、御手洗にその面影が映ったところと
いうことなので、橋本でしょう。このほうが岩本よりも水
辺にあるので、そのように思います。吉水の和尚が、

月を賞し、花をながめた遠い昔の風雅な人は、ここに神と
なっておいでの在原業平です。

とお詠みになった場所は、岩本だと聞いておりますが、私
どもよりはむしろ、あなたのような方がよくご存じのこで
ございましょう」と、実に謙虚に語ってくれたのには感心
させられた。 ❞


吉田兼好『徒然草』より


兼好は長明に遅れること128年後に生れた人物。『枕草子』
を読んでいたことは間違いないので、おそらく長明の
『方丈記』なども読んでいたことと思う。兼好は歌人でも
あったので岩本社(在原業平を祭る)に関心があったのだ
ろう。実方は清少納言と同時代の人で、一条天皇に
「歌枕見て参れ」と陸奥に左遷された。「橋本社」は橋殿
の西の明神川の畔に鎮座。
こちらに 「歌枕見て参れ・実方かたみの薄」 があるので
関心のある方は覗いてみてください。

校 倉
庄 屋
渉渓園
遣水と賀茂山口神社
スダジイの巨木
二葉姫稲荷神社鳥居
二葉姫稲荷神社 からの眺め
上賀茂神社二の鳥居

 石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ

       鴨社歌合とて人々よみ侍りけるに、月を……鴨長明


“源の光行主宰の賀茂社奉納の歌合ということで歌合がありました時、
私の詠んだ「月」の題の歌を詠みましたところ、判者だった源師光
入道が、「このような川はありはしない」と言って、負けとなりまし
た。思うところがあって詠んだのですが、こういう結果になったので
不審に思っておりますうちに、

「その時の判者には総じて理解できないことが多くある」というこ と
で、また改めて顕昭法師に判をさせました時、この歌の箇所に判 をし
ていうには、「『石川・瀬見の小川』というのは、全く聞き及 んでお
りません。ただし、この歌はおもしろく続けている。このような川な
どがあるのでしょうか。土地の者に尋ねて勝負を決めよう」 として、
結論を出しませんでした。

後に顕昭法師に会った時、このことを話題に出して、「これは賀茂 川
の別名です。賀茂社の縁起にあります」と申したところ、顕昭は驚いて、
「うまい具合に強く批判しないですませましたよ。それでも、この私が
聞き及んでいない名所がありはしないと思って、ともすれば批判をしそ
うに思われたのですが、誰の歌とは知らないが、歌の姿がなかなかよく
見えたので遠慮してあのように申したのです。 これはまさに年の功です」
と申しました。”
※現代語訳:久保田 淳氏

この逸話は当時の歌合せを想起させる出来事である。長明の物知り、
勉強家ぶり、勝負事に一歩も譲らない気の強さを彷彿させる。 後日、
この歌は『新古今和歌集』に入れられた。

賀茂川の流れ

いわゆる外出自粛が明けた日、古くから所有していたズームレンズが
デジタルカメラでどういう写りをするのか知りたくなり、試写のため
鴨川の堤を北へ北へと向かって歩いた。

府立植物園に差しかかり、たまには花でも撮ってみようか、と正門に
向う。ところが正門にはお年寄り(ワシもその一人)ばかりが数十人
並んでおり、体温を測り終えるのを待っている。これは待っておれん、
園内は広いとはいえ、花よりも人の数の方が多そうな気配がする。

そして、またまた歩いてたどり着いたところが、北の外れの上賀茂神
社であった。

今回の散歩は、ふだん足を運ばないところまで行ってしまった。
渉渓園 など散策するのは実に30年振りのこと。 二葉姫稲荷神社は初
めてお参りした気がする。そこには行かない方がいい、と言う話も聞
くが、なるほどその訳も分かる雰囲気を持っている。