源氏物語に現れた流行病・瘧(わらわやみ) ― イタリア古寺巡礼に現れた流行病・マラリア

古くよりわが国に伝わる『源氏物語』『大鏡』などを読んで
いると瘧(わらわやみ)という病をいく度となく目にする。
現代では聞きなれない病である。では瘧とはいったいどのよ
うな病なのだろうか。そのことに興味を持ち調べてみた。

京都御所御池庭

瘧(わらわやみ)とは?

[広辞苑]
「おこり」に同じ。間歇(かんけつ)熱の一。隔日または
毎日一定時間に発熱する病。多くはマラリアを指す。

[古語辞典] (BE社版古語辞典による)
マラリアに似て隔日または毎日、時を定めて発熱する病気。
=わらわやみ・疫病(えやみ)。

[言海] (大槻文彦博士が数十年の歳月をかけ明治24年上梓)
隔日に発(オコ)ル故ノ名ト云。古言ワラハヤミ。熱病ノ
寒熱、日ヲ隔テテ、時ヲ定メテ発ルモノ。 


一言でいえば瘧とはマラリアのことのようだ。 はたして平安
時代、あるいは天平の昔に、蚊が媒介するという南国の流行
病マラリアがあったのだろうか。 その病はどのような症状を
呈するのだろうか。

清涼殿

[清涼殿]
天皇の日常生活の場。入母屋檜皮葺の寝殿造りである。床が低く
間仕切りが多いので住居に適した造りという。前庭には「呉竹」
(写真右側)、「漢竹」が植えてある。

清涼殿

『源氏物語』に現れた瘧

[若紫]より

❝ わらは病(やみ)にわづらひ給(たまひ)て、よろづにまじなひ、
加持などまいらせ給へど、しるしなくてあまたたびおこり給ければ、
ある人、「北山になむなにがし寺といふ所にかしこきをこなひ人侍
る。こぞの夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがて
とゞむるたぐひあまた侍りき。ししこらかしつる時はうたて侍を、
とくこそ心みさせたまはめ」など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、
「老かゞまりて室(むろ)の外(と)にもまかでず」と申したれば、
「いかゞはせむ。いと忍びてものせん」との給ひて、御供にむつま
しき四五人ばかりして、まだあか月におはす。❞


[現代語訳] 古文のままではなんのこっちゃ意味が解らないので、
ここは谷崎潤一郎氏の訳で…

(源氏が)❝ 瘧病をおわずらいになって、いろいろと禁厭(まじない)
や加持などをなさいますけれども、その験(しるし)がなくて、たび
たび発作に悩んでいらっしゃいますと、或る人が、「北山に、某(な
にがし)寺というところに、偉い行者がおります。去年の夏もあの病
気が流行りまして、ほかの行者たちが持てあつかっておりましたのを、
わけなく直した例がたくさんございます。

こじらせると厄介でございますから、早速お試しなさいませ」などと
申し上げますので、使いをやってお招きになりますと、「老衰いたし
ておりまして、足腰が不自由でございますから、室(むろ)の外へも
出ません」と申しますので、「ではいたし方がない、忍んで行こう」
と仰せになって、睦じいものを四五人だけ供にお連れなされて、まだ
暗いうちにお出かけになります。その庵室のある所へはやや奥深くは
いって行くのでした。❞

丸太町大橋より望む北山(橋の向うに見える中州の森は下鴨神社)

マラリアとは
瘧はたびたび発作が起こる、というが、詳しくは書いていない。
わたしの父(太平洋戦争で南方のビルマ戦線に従軍)からマラ
リアに罹った経験を聞いていたので、その時の記憶では、
「全身に身体の震えがあって布団の上から押さえつけられても
震えは止まらなかった」という。間歇的に震えや高熱があった
かどうかは、覚えがない。

先だって和辻哲郎氏の 『イタリア古寺巡礼』 を読んでいたとこ
ろ、マラリアに関する興味深い記述に出会ったので、長文である
がこの場で紹介したい。
※和辻は若いころ(大正時代)、岡倉天心に影響を受けたことが
あり、奈良に旅し『古寺巡礼』を著した。太平洋戦争に向う大学
生などから大いに読まれたようだ。今でも奈良を旅する者にはお
薦めできる本である。

イタリアの流行病 ― 和辻哲郎マラリアに病む

イタリア古寺巡礼』[ヴェネチアに病む]より

❝ …たぶん四月の二日か三日のころに、昼食にホテルへ帰って食卓
に向かうと、まるで食欲の起こらないのに気づいた。ホテルへ帰る
途中では、今日もまたヴ ェネチア名物の魚のフライを食おうと、
幾分楽しみにさえしていたのであるし、食卓についてからもそうい
う気分でいたのであるが、最初スープを飲み始めると、何となく胸
がつかえるようで、あとを口に入れる気がしない。やがてフライが
出ても、頭ではうまいはずだと思うのであるが、どうしても手をつ
ける気持ちが起こって来ない。

結局、皿とにらめっくらをした末に、残念ながらそのままさげても
らう。どうも変だ、そんなはずはないが、と思って、部屋に帰って
念のために熱を測って見ると、、七度五、六分ほど熱が出ている。
どうも風邪をひいたらしい、今のうちに癒してしまおう、というわ
けで、その日はアスピリンを飲んで寝てしまった。夕食も抜いたよ
うに思う。


翌朝眼をさまして見ると、気持ちはさっぱりしている。熱もない。
朝食はうまかった。もうこれで風邪は防げたらしいと安心して、
午前中はまた見物に回った。ところが、昼の食卓について見ると、
昨日と同じ現象がまた起こって来たのである。昨日は昼と夜とを
抜いたのであるから、今日は少し栄養を取っておかなくては、と
考えるのであるが、何としても食物を口に入れる気がしない。
ただわずかに水が喉を通るだけである。さては、朝熱がなかった
のは、アスピリンのせいであった。風邪はまだ退散しないのだ、
と思って、この日もまた午後は床についた。

次の日になると、朝はまたきわめて爽快な気持ちで、食欲にも変
わりがなかった。こうなると、どうもいつもの風邪ではなさそう
だという気がしてくる。とすると何の熱だろう、と少し薄気味悪
くもなったが、しかし大したことでもなさそうに思えるので、そ
の日から寝るのをやめ、なるべく夕食をとるように努めた。そう
していても別に病勢が高まってくるというわけではなかった。
ただ全体として気分が暗くなって来たことは事実である。

由岐神社

ヴェネチア を去ってヴェロナへ行ったときにも、健康の状態は
同じであった。ヴェロナではずいぶんいろいろなものを見たはず
であるが、印象はほとんど残っていない。ちょうど午後の熱の出
てくるころになると、見物している古い寺の建築などがいかにも
暗澹として見えた。

ついでミラノに着いて、中央寺院やスカラ座に近いホテルに泊ま
り、たぶん二日ぐらいは見物して歩いたかと思う。中央寺院は屋
根の上まで昇って見たし、ブレラ宮殿の美術館ではティントレッ
トやボルドーネを丹念に見たし、アムブローシアナ図書館の画廊
ではレオナルド・ダヴインチの手記類を見た。
レオナルドの有名な最後の晩餐の壁画も、少し離れたサンタマリ
ア・デルレ・グラチエの寺の傍まで見に行ったが、そのころから少
し体の具合が変で、とうとうその晩には高熱が出た。そうして翌
日も翌々日も熱は下がらなかった。

同行の亀井君は親切に世話をしてくれたが、三日目だったか四日
目だったかに、自分の愛用している解熱剤だからためしてみるが
よいと言って、キニーネの錠剤を買って来てくれた。私はいっこ
う利かないアスピリンの代わりに、このキニーネの錠剤を飲んだ。
すると、翌朝には熱は下がっていた。その日一日寝てはいたが、
もう熱は出て来なかった。

キニーネがてきめんによく利いたというので、私はマラリア
のことを連想した
記憶をたどってみると、ボローニャからラヴェンナへ行く汽車
のなかで、足を蚊に食われて実にかゆかったことがある。あの
日は雨がびしょびしょしていやな日であったし、地方線の汽車
の車室もみすぼらしかった。かつて西ローマ帝国の最後の栄光
がこの地方で輝いていたとしても、今はただわびしい気持ちば
かりがする。そういう気持ちで、靴下の上から踝(くるぶし)
あたりのところをしきりに掻いていたのであったが、その時に
イタリア人を平野から山の中腹へ追い上げたあの蚊の勢力
ことを、つい忘れていた。

これはどうもとんだ失策だといわなくてはならない。その時に
すぐ蚊に対するセンスをはたらかせて、ラベンナ着くとさっそ
くキニーネを買って服用すべきであった。そうしておけば、
ヴェネチアの印象も、ヴェロナやミラノの印象も、取り留める
ことができたであろう。残念ながらそれに気づくのが二週間遅
かった。

熱が下がったあとでも、スカラ座をのぞいて見ようとする勇気
さえ出なかった。早くマラリアの蚊のいないところへ行こう。
そういう気持ちで、急いでサンゴダルドを越えスウィスのルツエ
ルンへ出た。そうして湖水の美しい景色をながめつつ復活祭を
迎え、毎日キニーネを飲んだのである。❞

[ナポリとその付近]

❝ 1928年2月16日、ナポリにて。
……もう一つ顕著な相違は、こういう豊沃そうな平野に、村が
一つも見えないことであった。ところどころにきわめてまれに
一軒ぽつんと立っている家があるが、住家であるかどうかわか
らない。しかるにこの平野に臨んだ山の上には、時々、村とい
うか町というか、人家の塊がある。人の住居がそういうふうに
一か所に凝集しているという感じである。

こういう村落の位置はイタリアへはいった途端に眼についたこ
とで、あんあ所ではさぞ不自由であろう、水などはあるかしら、
と思われるくらいの高さのところにあるのであるが、それが、
ナポリに近づいてくると、ちょうど「城」のような感じの、い
やにがっしりした姿を取ってくるのである。こうなると、
「村落」という言葉が似合わなくなってくる。城壁に囲まれて
その中に家が密集しているのは、ポリスとかブルグとかと呼ば
れてよいものであろう。しかもそれが、農民の住んでいる唯一
の場所なのである。


これは古代のポリスの伝統と関係のある現象なのか、あるいは
マラリアの蚊に追い上げられて後に形成された聚落様式なのか、
というような問題が、また頭に浮び上がってくる。マラリアの
蚊の問題も、ローマのカムパニヤの光景を見ると、なかなかば
かにはできない大問題だと思われる。ローマの野には一つの村
さえない。

このあいだティヴォリへ行ったときには、汽車で一時間半走る間、
一つの村も町もなかった。そうして山にかかると、あっちにもこ
っちにも町が見えた。アルバノの山の方へ行ったときにもそうで
あった。山の頂上にある町さえあった。人間が平野の蚊を避けて
周囲の山へ逃げたという趣がいかにもよくわかるように思われる。

中世にはマラリアの猛烈な流行のためにローマの人口が二三万に
まで減ったとさえいわれている。もっともそこにはゲルマン人の
侵入ということも結びついている。蚊ばかりでなく、敵をも避け
たのであろう。従って両者は相合してこういう聚落様式を維持し
存続させたのであるかも知れぬ。❞

「つづら折り」の里程標

和辻哲郎氏のこと
長々と引用してしまったことをお許し願いたい。今の時代、和辻
哲郎氏の本は人気がないのか、全集でさえ投げ売りされているよ
うに思える価格設定なのだ。読む人がいないからなのか、これで
はもったいない。和辻氏の論理というか、発想というか、ものを
見る目には時々ハットする(わたしが言うのも何だが…)ものが
ある。

『日本精神史研究』を読むとそう思う。ジャーナリスティックと
批判する哲学者もいるけれど、「忘れられた思想家」にはしたく
ないのでもっと読んで欲しいと思うのだが(そんな理由もあって
引用が長くなりました)。

引用した文の中で、和辻哲郎氏は中世のローマが衰退した原因の
一つとしてマラリアの流行を上げている。この論は古くからあっ
たらしく現代でも人気のある説のようだ。

ローマ帝国の崩壊はマラリアが原因?

近年カナダ・マクマスター大学の研究者が古代ローマ帝国の墓地
に埋葬された2000年前の人間の遺体、成人58人、子ども10人の歯
から採取したDNAの断片を調査。その研究データからマラリア感
染の遺伝的な証拠を発見した、という論文を発表している。 研究
データから確認できたところよれば、「このマラリアは熱帯熱原
虫と呼ばれるマラリア寄生虫のもの。今日蚊によって媒介され、
毎年数十万人の命を奪っている寄生虫と同じものだ」、という。

とは言え、ある生物人類学者は、 マラリアが帝政末期のローマに
おける人口変動と最終的に関係していたとしても、鉛中毒や寄生
虫感染症、性病といった他の健康問題も調査することが重要だと
指摘。そのうえで「ローマ帝国の『崩壊』に単一の原因は存在し
ないというのが大半の学者の共通見解だが、人口が減少する過程
において疫病が一定の役割を果たしたのは確かだ」と述べている
(CNNニュースより) 。


うーむ、とにかく言えることは、古代ローマに限らず中世のローマ、
ひょっとしたら古代ギリシャあたりまでの都市が衰退した原因はマ
ラリア(疫病)が一定の役割を果たしているということだろうか。
空想が膨らむなぁ。

源氏物語 に戻る
飛んでイースタンブール(古いなぁ)、ではないが、再び『源氏物語』
に戻ろう。
光源氏は北山の某寺へ出かけ、深い巌(洞窟)の間に籠っていた聖に
会う。そこで護符を飲み、加持などを受けていると大分気分も良くな
ってきた(さすがに験がある)。

そこで周りを見渡すと目ざとく小奇麗な家を見つけ、その中に十歳く
らいの女童(めのわらわ)を見出す。女の児は白い下衣に山吹がさね
を着て、成人の後が思いやられる美しい器量をし、ほかの子供たちと
は似るべくもなかった。その子が若紫であった。この子の顔をひと目
見て、光の君は母の面影を見い出したのかもしれないし、あるいは成
人した姿を思い浮かべたのだろうか。お供の者(惟光)は、またまた
光の君の、あのビョーキが始まったと思ったであろう。…おっと脱線
してしまった。
そして元気になった光の君は翌日に車を呼びよせ都へ帰っていった。

日本のマラリア

ところでキニーネというマラリアの治療薬などなかった時代、護符
(ただの紙切れではなさそうだ)と加持などで瘧が治るのだろうか。
光源氏は半月余り瘧に苦しめられ、その後加持などにより治ってい
る。他に キナノキの樹皮など 漢方薬の治療薬があったのではないだ
ろうか。

日本のマラリアは いつごろからある?
日本には奈良時代以前にすでにマラリアは定着していたことが、平安
時代の『和名類聚抄』にエヤミ、ワラハヤミとしてその症状が記され
ている。
安土桃山時代、大阪で山科言経という医師が大阪で開業したとき、患
者の7 %が瘧であったそうだ。

実は日本は名だたるマラリア浸淫地で、札幌や釧路でも終戦直後まで
マラリア患者が普通にいたようだ。そして驚くことなかれ、琵琶湖を
抱える滋賀県が日本で最も流行度が高かった県で、1948年には全国の
マラリア患者4953人のうち2259人が記録されている。実に45%なのだ。
彦根市では、1978年まで流行が定着していた、という。
※彦根市のマラリアは「マラリア対策」の成果が出て、1954年には患
者数がゼロになり、撲滅に成功したという報告(日本医史学雑誌55巻
「風土病マラリアはいかに撲滅されたか」田中誠二氏他)が出ている。

水辺がマラリアの流行地ということか。そのことから考えると、飛鳥京、
大津京、長岡京、平安京と水の豊かな環境であった。運河や川が疫病を
防ぐと考えていたのだが、これは油断していた。遷都の原因は人的原因
だけでなく、疫病も一役買っていたのかも知れない、と妄想が膨らむ。

江戸時代には瘧はそれほど流行せず、その理由は開発が進んで沼沢地が
減ったこと、漢方薬治療(キナノキの樹皮?)が盛んになったことによ
るらしい。

そして第二次世界大戦直後の外地帰還者(わたしの父がそうだ)による
マラリアの輸入があり患者数は全国的に増えたが、媒介蚊退治と徹底し
た患者の治療が功を奏し、土着マラリアは1987年以降認められていない。
※南 陽氏「日本のマラリア」を参考に この項を作成する。

つづら折りの道
木の根道(義経はこの辺りで天狗から武芸を習った)

北山の某寺とはどこ ?

さて『源氏物語』若紫に出てくる北山の某寺とはどこの事であろうか。
文面から想像するに比叡山や愛宕山ではなさそうだ。まだ夜が明ける
前に都を出て、朝の内に寺へ到着しているようなので、徒歩で二三時
間、遠くても四時間と仮定すると鞍馬寺、あるいは雲ケ畑にある志明
院、少し遠いところで高雄の神護寺あたりではないだろうか。

鞍馬の奥には行者の修行の場であった峰定寺(ぶじょうじ)がある。
そこは近年摘み草料理で有名な料亭(かつては修行者の泊まる宿)が
あるけれど、京都バスで出町柳から最寄りのバス停まで一時間、そこ
からまた徒歩で三十分かかるのでそこではなかろう。

ヒントは文面にある「闇部(くらぶ)の山」である。 「くらぶの山」
とは近江の国の歌枕だというが、古くは鞍馬山のこともそう呼んだよ
うだ。それに「つづら折り」を連想させるような、鞍馬山のような風
景描写がある。

鞍馬山より望む比叡山

北山にある某寺とは 鞍馬寺 のこと
ということで「くらぶの山」、枕草子にも書かれている「つづら折り」
の雰囲気から察するに、北山にある某寺とは鞍馬寺ということになるよ
うだ。結論を急いでしまったような…まっ いいか、これで良しとしよう。
※物語の仮定の寺のことなので笑って済ませてください。


[最後に]
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を目にし、普段親しんでいる
『枕草子』『大鏡』『方丈記』などを読んでいると、疫病という
「キーワード」が妙に気にかかった。それで文学に現れた疫病を調べ
出したのです。

疫病が都市生活(大袈裟に言えば人類の生活)に大きな影響を及ぼす
ということが、古い書物(物語)を読むことにより理解が深まるので
はないか、と思ったのです。「アフターコロナ」の世界はどう変わっ
ているのでしょうか。
頓珍漢な文章とレイアウトですが、書かれてある内容が少しでも読者
の役にたてれば嬉しいです。