東京高検検事長の賭けマージャンに思う そしてモンテーニュのことなど

近ごろ永田町あたりで、賭けマージャン辞任で「訓告処分」は
どうのこうのと騒がしい。今日、モンテーニュの『エセ―』を
読んでいたところ、面白い文章に出あったので紹介したい。


わが国の高等法院のあるものは、法官を採用するに当たって、
知識だけを試験する。また、別の高等法院はそれ以外に、何か
の訴訟の判決をさせてみて、良識の試験をする。

私は後者の方法がずっとすぐれていると思う。また、知識も判
断も共に必要で、両方を兼ね備えねばならないが、本当を言う
と、知識は判断よりも大事ではないと思う。後者は前者なしで
もすむが、前者は後者なしにはすまない。というのは、ギリシ
ャの詩に、


判断力を伴わない学問が何になるか、


とあるように、分別がなければ、学問は何の役にも立たないか
らである。どうか、われわれの正義が守られるために、この法
官連中が知識と同時に判断と良心をも十分に身につけるように
してほしいものである。

…ところで知識を魂に付着させるのではいけない。合体させな
ければならない。知識で魂を濡らすのではいけない。浸み込ま
せなければならない。

もしも知識が魂を変えないなら、そして不完全な状態を改善し
ないなら、たしかに、そのままにほうっておくほうがずっとま
しだ。知識は危険な剣である。力の弱い、使い方を知らない人
に持たせるとその人を妨げ、傷つける。だから何も学ばない方
がよかった。」


フランスの法曹界に身を置いた人が言うのだから、きっと正しい
のだろう。
モンテーニュの『エセ―』は「こころみる」という意味があるよ
うだ。そう言えば和辻哲郎も「試み」と言いながら自伝を書いて
いた。和辻の試みは、子どもの頃からの思い出から始まって、大
学時代で終ってしまった。そのわけは、残念ながら永眠してしま
ったからである。最後まで書き終えていたなら、きっとモンテー
ニュの『エセ―』と同じくらい大分の冊子になっていただろう。

モンテーニュはどこかで書いていたが、読書をするのは、若い時
は知識をみせびらかすために、すこしのちには賢くなるために、
歳をとってからは、ただ楽しむために、と。わたしが『エセ―』
を読むのはただ楽しむためなのだ。意外にも『徒然草』に通じる
ものがあって面白い。

吉田兼好の『徒然草』は『エセ―』(1580~)が書かれる250年
前、ついでながら清少納言の『枕草子』は『エセ―』の実に600
年ほど前には書かれていたのである。西洋と東洋の違い、宗教や
階級の違いこそあれ、どの作品も学ぶところは多いし、老後の長
い時間を送るにはもってこいのエセ―である。