芭蕉の「おくのほそ道」をゆく - 義経最期の地 高館、観自在王院跡編

さて休憩もとらず、飲まず食わずで写真撮影を続けたので大分疲れた
し、お腹も空いた。どこかで休憩を兼ね昼食をと考えていたところ、
中尊寺入口駐車場脇に土産店や食事処が軒を連ねているのを見つけた。
まだ昼食には少々早い時間だったが、「ずんだ餅」の幟にひかれるよ
うに、とある一軒の食堂に入った。

店は開いたばかりで客はわたしの他には誰もいない。ずんだ餅と蕎麦
のセットを注文した。 出来上がるのを待つ間に今夜泊まる宿をネット
で探す。 だが、いくら検索しても空いているホテルが無い!

昨夜宿泊した一ノ関駅前のホテルは駄目だったので、少々離れた場所
のホテルでもいいやと思っていたのだが、まったく空いていない。予
算の三倍を出せばあるけれど、それはこの先のことを考えると無理だ。
そうこうしているうちに蕎麦と搗き立てのずんだ餅がテーブルに届い
たので宿探しは後回し。

昼食を済ませてからも宿を探すが全く見つからないので次の目的地、高館、
観自在王院跡と毛越寺を目指して、またまたひたすら歩く…歩く。

途中で見かけた秀衡塗の店

塗りものと焼き物(陶磁器)には目が無いわたし。見ると欲しくなる、
欲しくなると後先考えず買ってしまう。こればかりはほとんどビョーキ。
なのでスルー!

衣川・北上川を望む

春望  杜甫

国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙をそそぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す

 夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉の真筆と伝わる石碑(毛越寺境内)

今回の旅では義経 最期の地、高館を訪れることは出来なかった。
そのわけは、高館への案内板を見落としたので 、それに気づいた
のは大分過ぎてからのこと。もう後戻りする元気がなかったのだ。

なので、高館からの眺めをイメージする写真と芭蕉が「朝夕の友」
としていた杜甫の漢詩を上に掲載した(これでご容赦を)。

上の石碑は、本来高館にあるべきものだが毛越寺境内にあった。
この場で紹介しておこう。


三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川
は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。

泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め夷(えぞ)
を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐってこの城にこもり、
功名一時の叢となる。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷
きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。


芭蕉一行は平泉を訪れ、まず義経最期の地 高館に登り、眼下
に北上川、そこへ流れ込む支流の衣川、そしてその彼方には
青々とした田野が広がっているのを眺め、杜甫の詩「春望」
を思い浮かべたのだろう。義経最期の場面をも想像したであ
ろう。ここで詠んだ句が


       夏草や兵どもが夢の跡


「往年、義経以下の勇士たちが、功名の夢をいだいて奮戦し
はかなくも一場の夢と消えた廃墟。その廃墟の上に、生えて
は枯れ、枯れては生えて、今眼前に茫々とおい茂る夏草は、
人生の刹那の興亡と悠久の夢とを象徴しているかのようだ。」
評釈:穎原退蔵氏

わたしの今回の旅は、芭蕉の足跡をたどる旅なのだが、芭蕉の百年
ほど後に三河出身の歌人・本草家・紀行作家である菅江真澄(すが
えますみ)という人物の足跡を追う旅でもあるのだ。実に四十年以
上にわたり漂泊の旅を陸奥と蝦夷地に続けた人なのだ。その真澄も
この地にいく度か立寄って文を残しているので、その一部を紹介し
たい。

「九郎判官(義経)の館の跡で高館というところがある。武蔵坊の
館の跡、そのほかの兵士らが住んだ跡も、いまはみな畠となり、百
姓の住家となった。義経堂に登ろうと思ったが、雪がひどく深いの
で、またの機会にしよう……」

「忠信、次信の館の跡は、高館の下方の崖のようなところである。
義経の館は高館といって、たいそう高いところにあり、戦闘の最後
に、今はこれまでと、九郎判官が恨みをのんで、経文の一節を唱え
ながら妻子をともにさしつらぬき、その太刀で腹をかき切られたの
は文治五年(1189)閏四月二十九日のことで、御年三十三であった。
法名通山源公大居士と彫った霊牌は、衣川村の雲際寺におさめられ
ている。」
菅江真澄『かすむ駒形』(菅江真澄遊覧記2) 現代語訳:内田武志

先を急ごう。金鶏山の東側を通り毛越寺の方へ向って歩く。途中
熊野三社やユネスコ世界遺産に登録された遺跡群があるけど、そ
こはまたの機会に。

「…金鶏山という山があり、それは清衡の時代であったか、雌雄
二羽の黄金の鶏を鋳させて埋めておかれたそうで、金鶏山と呼ば
れたのである。ここでうたう“旭さす夕日かがやく木の下に漆千盃
こがね億置く”というのは、この金鶏山をさしていったのだといわ
れている。
だがこの歌はむかしの童謡であろうか、出羽や陸奥に、わずかの
違いはあるがところどころにある。」
菅江真澄『かすむ駒形』 より

観自在王院跡

画面左端に見えるこんもりとした山が金鶏山と思われる。そのまた奥に
中尊寺が鎮座している。

観自在王院跡は毛越寺のすぐ東に位置し、境内全域が史跡公園として
開放されている。全域が国の特別史跡・名勝に指定されており、2011
年に世界遺産に登録された。
写真奥の方に、毛越寺の山門が半分だけ見える。

舞鶴が池

観自在王院は、二代基衡の妻が建立した寺院。二棟の阿弥陀堂が池に臨んで
建てられていたという。藤原氏が滅亡後廃寺になり、長年水田となっていた
が、昭和50年前後に発掘調査され、その後現在のように整備されたようだ。

池の西方(写真中央)に荒磯風の石組、池の中央に中島(写真左)がある。

中島越しに池の北方(かつて二棟の阿弥陀堂があった)を望む
阿弥陀堂を望む
かつて大阿弥陀堂と小阿弥陀堂があった場所
大阿弥陀堂
大阿弥陀堂を背にし、毛越寺の方角を望む

観自在王院跡の庭園は浄土を表しているという。とても開放感のある、
きれいに芝の張られたところなので気持ちよく回遊路を歩く事ができ
るので、毛越寺拝観の前後に時間が許せば立寄ってみたい。

※続きます