芭蕉の「おくのほそ道」をゆく - 中尊寺金堂は霜雪に耐え燦然と輝く

平泉は「おくのほそ道」の心臓部

松島、一ノ関を立ち「おくのほそ道」紀行の中心平泉にやって来た。
この辺りは見どころが沢山あって一日や二日では回り切れないほど
である。訪ねたい所は幾つもあって、
①中尊寺
②毛越寺
③観自在王院跡
④達谷窟
⑤猊鼻渓
⑥厳美渓
…などなど。これはどう考えても欲張りすぎだ。徒歩で、あるいはバス
を利用しての旅である。体力と資力がいつまでもつだろうかという心配
もある。この辺りは江戸時代の歌人にして紀行作家・菅江真澄(芭蕉に
遅れること約100年後)や小説家・幸田露伴が幾日もかけて歩き、そし
て後世に紀行文を残したところなのだ。その片鱗を自分の体であじわい
たいものだ。

五泊目の一ノ関から平泉駅まではほんの二駅、「青春十八きっぷ」を使
うまでもなかった(いつになったら三枚目を使えるのだろう)。今夜泊
まる宿も決まっていないし、それが心配だ。周りながら折を見てネット
で宿を検索してみよう。

平泉駅で下車し駅の中に置いてある付近の案内図やパンフレットを幾つ
か選び、周回の「るんるんバス」には乗らないで先ずは歩く…歩く。駅
の正面(700m先)には毛越寺があるけど先ずは早朝の中尊寺金堂を見た
い、人の歩いていない月見坂を写真撮影したい、と気がはやる。道々歩
きながら景色も撮りたいと、年齢も考えずやる気満々、体力を温存する
などという気は頭の片隅にも無かった。

中尊寺より衣川の方角を望む

芭蕉は日本の人たるなり

「芭蕉は伊賀の人にあらず、何ぞ伊賀によりて芭蕉を語るをもちいんや。
芭蕉は実に日本の人たるなり。……
しかりといえど、芭蕉は本より実に伊賀の人たるなり。伊賀に生れ、伊
賀に長じ、伊賀に仕ふ。伊賀の山を出て雲を隔て、江湖に漂浪し、都鄙
を流転し、つぶさに辛苦精進して、人生の磨礪(まれい)を受け鉗鎚
(けんつい)を甘なひ、しかして後 漸くにして日本の人たるに至りしな
り。
年の暮の什、秋の霜の句、芭蕉みづから伊賀の地に泣く。芭蕉まことに
伊賀の人たらずばあらず。伊賀何ぞ此の寧馨児(ねいけいじ)をその懐
より放たんや、芭蕉もまた もとより故郷伊賀をその懐より忘れんや。
芭蕉まことに伊賀の人たるなり。…しかしてまた実に日本の人たる也」
※幸田露伴『芭蕉伝序』より

ブログを書きながら芭蕉を学ぶ

さて前回の投稿から随分と間が空いてしまったことをお許し願いたい。
そのわけは、身辺で様々な出来事が起きたこと、そして芭蕉翁の日本
文学史のなかでの立位置が分らなかったことにある。後者の理由は単
にわたしの勉強不足にある。一から勉強を始めようと書棚から芭蕉に
関係ありそうな本を探し出したら数十冊に上ってしまった。

全部読んでから芭蕉翁のことを書こうと思っていたのだが、一向に読
み進むことが出来なかったどころか、「おくのほそ道」研究(そんな
大そうなものではないけど)の意欲が減退してしまったのである。芭
蕉を調べようと思ったなら、何と杜甫や李白の漢詩から学ばなければ
ならないのだ(気が遠くなるわ)。

そこで方針を転換し、ブログを書きながら、投稿しながら本を読み進
めていこう、とこう考えたのである。

中尊寺バス停

平泉駅から歩いて三十分ほどで中尊寺前に着いた。バス停の隣には
武蔵坊弁慶 の墓がある。

武蔵坊弁慶墓碑
中尊寺参道入口
月見坂
茶 店
弁慶堂入口
弁慶堂
本坊表門
本 堂

中尊寺の由緒
「中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいし
えんにん)によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代
清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。
清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・
後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、
「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和
な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、
骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 」
※中尊寺ホームページより引用

本坊表門(境内側)
金色堂覆堂(金色堂は覆堂の中にある)

かねて耳おどろかしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、

光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、

珠の扉 風に破れ、金の柱 霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢

となるべきを、 四面新たに囲みて、 甍を覆ひて風雨を凌ぎ、

しばらく千歳の記念とはなれり


ここは是非とも原文で鑑賞したいところである。平泉の巻は
『おくのほそ道』の心臓部、藤原氏の栄華と義経の悲劇の歴史
を回顧しているところなのだ。芭蕉の筆には力がこもっている。
変わるものがあれば変わらないものもあるのだ。『平家物語』
や『方丈記』、杜甫の詩に通じるものを感じるのは、わたしだ
けだろうか。

ところで芭蕉の記述には実景を越えて創作が多いことはよく知
られるところ。当日、経堂はあいにく別当が留守で開けてもら
えなかったようなのだ(曾良随行日記にその記述あり)。内部
には三将(清衡・基衡・秀衡)の像ではなく、文殊菩薩、優天
大王、善哉童子の三像があったのだという(そんなことは気に
せずに作品を楽しもう)。

金色堂(天治元年・1124)には、建物を風雨から守る覆堂が創
建当初からあったものだと考えていたのだが、どうもそうでは
なく、芭蕉が「四面新たに囲みて」と書いているように正応元
年(1288)に覆堂(さやどう)が造られたようだ。

七宝散り失せて 、 珠の扉 風に破れ、金の柱 霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢となるべきを

の意味が実物の金色堂を拝観してそのことが分ったことは収穫
であった。金色堂の屋根は宝形造、瓦形の厚い板葺きで創建当
初からのものなのか、長年の霜雪で千年の皺を刻んでいた。そ
れが深く印象に残っている。

金色堂は昭和に修復されたので、今は綺麗に金色に輝いている。
写真家の土門拳氏は、金色堂が綺麗になったことを喜んではい
なかったけど。

金色堂は鉄筋コンクリート製の覆堂(1965建設)内でガラスケ
ースに納められて外気と遮断されている。ふだん「金色堂」と
して見慣れている建物は、鉄筋コンクリート製の覆堂 なのだ。

五 月 雨 の 降 り 残 し て や 光 堂


——この寺の建てられて以後、五百年にわたって年々降り続けてきた五月雨も、
ここだけは降り残してであろうか、今、五月雨けむる空のもとで、光堂は燦然と
輝き、かつての栄光を偲ばせていることだ。——

…評釈:穎原退蔵氏

金色堂覆堂(北面)、右側の石碑に「五月雨の…」俳句が刻まれている

金色堂が出来てから、それより上(北上川・衣川)には鮭が遡上
しなくなったという伝説があったようだ。

経 蔵(かの経蔵である)
松尾芭蕉像
旧覆堂(重要文化財)
室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂
旧覆堂 内より外部を望む
経蔵を望む
大長寿院山門
大長寿院庭園
大長寿院 への道
能楽殿への道
能楽殿

能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩により再建。正統かつ本格的な規模と
形式の能舞台として、平成15年(2003)に国の重要文化財に指定された。

白山神社(中尊寺の北方を鎮守するためこの地に勧請)

紹介した建物以外にも見どころは沢山あるのだが、この辺で終わりにして
次の予定地に向かおう。中尊寺では次の句だけ記憶にとどめれば良いこと
にしよう。

         五 月 雨 の 降 り 残 し て や 光 堂

東物見より束稲山を望む

月見坂を少し上ったところに東物見がある。そこに西行歌碑が建っている。
最後に紹介しようと残しておいたものだ。

西行歌碑 (東物見)

きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは

西行の足跡にも ひとかたならぬ思い入れのあった芭蕉である。この地から
束稲山を望み西行の歌を誦じたであろう。束稲山の桜も吉野山の桜に劣ら
ず見事な咲きっぷりであったのだろう。

束稲山の桜樹は、藤原秀衡が三十里の間に桜の木を植えたと『吾妻鑑』に
出ているようだ。

天明六年(1786)に平泉を訪れた菅江真澄は「むかし束稲山の麓に桜をた
くさん植えて、この桜の花の影が上川(北上川)の水にうつり、散るころ
は雪の流れるようで、たいそう趣があり、それで秀衡は、北上川を桜川と
名づけられた。そのさまは吉野川にも劣らないほどであったが、今の束稲
山には一樹の桜もなく、中尊寺のあたりを桜川と呼ぶと、酒を売る茶屋で
そう言っているばかりである。」と『かすむ駒形』に書き残している。

西行と芭蕉の相似点とは?

芭蕉が親しんだ古の歌人の一人に西行法師がいたことは誰しもが認めて
いることだと思う。ここまで陸奥の歌枕を訪ね歩いてきたわけだが、芭
蕉は義経、そして西行の足跡も追っていたに違いない。西行の山家集な
どの歌集をこの旅でも携帯していたと想像する。

芭蕉の友人で山口素堂という俳人がいる。素堂が「甲子吟行」の序とし
て書いた文には、「此翁年ごろ山家集をしたひて、をのづから粉骨のさ
も似たるをもつてとりわき心とまりぬ。」と残していることから、芭蕉
はよほど西行に心酔していたものと見える。

貞享元年(1684)芭蕉は「おくのほそ道」出立の五年ほど前に門人千里
を伴い「野ざらし紀行」の旅に出て、吉野山に西行法師の庵跡を訪ねて
いる。よほどの思い入れがなければ、あのような山奥まで分け入るわけ
がないように思えるのだ。そのときの俳文がこれまた名文なのでここに
紹介しよう。

「独よし野ゝおくにたどり(て)けるに、まことに山ふかく、白雲峯に
重なり烟雨谷を埋ンで、山賤の家處ゝにちいさく、西に木を伐る音東に
ひゞき、院ゝの鐘の聲は心の底にこたふ
むかしよりこの山に入りて世を忘れたる人の、おほくは詩にのがれ、歌
にかくる。いでや唐土の廬山といはむもまたむべならずや。」

今でこそロープウェイのある吉野山である。芭蕉の生きた時代では、
金峯山寺にたどり着くにはさぞ難儀したであろう。ここで私事で申し訳
ないが、吉野山には行者が修行する「大峰奥駈道」というものがある。
吉野から熊野本宮大社まで四、五日で早駈する修行なのだ。わたしは無
謀にも、その奥駈道に一人で挑んだことがあるのだ。二日目までは順調
に進んだのであるが、三日目に台風に遭い、これ幸いと霧にまかれなが
らも下山したことがあるのだ。あの修行はしんどかった。修行道を歩け
ど歩けど下界に人家が見えないのだ。あるのは草と樹木ばかり。山頭火
の句ではないけれど、「分け入っても分け入っても青い山」ばかりだっ
た。

脱線してしまった。ところで西行のどこに芭蕉は魅かれたのだろうか。
幸田露伴翁が言うには、「西行と芭蕉との身の持ち方や心の置方に多く
の相似点」を見て、

「試みに山家集を取って点検すれば、著しく西行が不羈の態度を取って
歌をものしていることは分明で、同時代の他の歌人の歌よりは、古代の
言語に着しているより時代の言語に即して居ることは誰の眼にも着く。
自在不羈、流暢清新、時に卑野をも避けぬようなのは西行の歌である。
…ここに芭蕉と西行との詩歌の精神上、内容上の関係以外の或関係が看
取される心地がする。」

「然し西行はまた勝手に言語を駆使したとは云え、ムヤミに用いたので
は無い、自分の歌に取って適応する範囲に於て、新しいものを用い、又
古い語の新しい意義をも用いたので、歌人としての用意は十分にしてい
るのである。」

「此点に於て芭蕉も俗談平語を用いているが、ただムヤミに俗談平語を
用いたのでは無い、無論それは一代の詩人として(たとえ無意識にもせ
よ)詩に取って適応するように用いているのである…」

自分の立っている時代を正当に解釈して、時代の生きた言語を用い、し
かもそれらの言語を良き言語として成り立たせるようにするのは、真の
優れた詩人の言語上に処する副産物的好作用である、と露伴翁は言う。
※『芭蕉と西行・杜子美・黄庭堅』より


※中尊寺編終わり(「おくのほそ道」は まだまだ続きます)。