令和二年の桜 養和二年の流行病

匂いぞ 出る

今年の春は例年になくサクラの花を見て歩いた。
世は新型コロナウイルスの話題と外出自粛が叫
ばれて久しい。運動不足解消を兼ね、近辺を散
歩しながらの撮影なので田園や山岳を背景にし
ての風景は撮影できなかったのは心残りではあ
るが、それは来年にとっておくとしよう。
「養和二年の流行病」は後半にあります。
それはさておき…


さくら さくら
やよいの そらは
みわたす かぎり
かすみか くもか
においぞ いずる
いざや いざや
みにゆかん

琵琶湖疎水べりのサクラ

京都御苑のサクラ

ギョイコウ
ウワミズザクラ

養和の飢饉と疫病

「それからまた養和年間のころだったか、もう長い年月が過ぎて、
はっきりとも記憶していないが、二年の間、世の中が飢饉と干ばつ
になって、あきれるほどひどいことがございました。あるときは、
春と夏に旱魃、あるときは、秋と冬に台風や洪水など、よくない事
がひき続いて、穀類がすべてみのらない。むだに、春は、田をすき
かえして耕し、夏には、それに田植えをする仕事ばかりして、秋に
は稲を刈りとり、冬にはそれを収納するさわぎがないのだ。

その結果として、諸国の民はあるいは、家をかえりみないで、山中
に居住する。朝廷では、各種のご祈祷が始まって、格別の行法もな
されるけれども、全然、その効果がない。都の生活の習慣として、
どの職業においても、その資源は田舎ばかりをたよりにしているの
に、まったく、都の内に入ってくる物資がないので、そうそうばか
り、平常に変らぬ体裁をとりつくろい通せようか。

がまんができかねるにしたがって、いろいろの財宝を、かたっぱし
から捨てるように売り払うけれども、全然、目をつける人がいない。
時たま、物品と交換する人は、金目の財宝を低く評価し、穀類の方
を高く評価する。乞食が道の辺に多くいて、窮状を訴えて嘆く声が
あちらこちらからも聞こえてくる。

養和二年の疫病
明くる養和二年(1182)は、もとのように回復するだろうかと思っ
ているうちに、そのうえに、流行病が加わって、いっそうひどくな
る一方で、昔の平穏な状況の痕跡もない。世間の人は、みな、流行
病にかかってしまったので、日がたつにつれて、次第にゆきづまっ
てゆく様子は、わずかしかない水に苦しむ魚のたとえによくあては
まっている。

しまいには、笠を頭につけ、足を物で覆って一通りの身なりをして
いる者が、いちずに、一軒ごとに物乞いして回っている。このよう
に、やりきれなくなって頭がおかしくなった人たちは、そこらを歩
き回るかと見ていると、すぐさま、横倒れになってしまう。土塀の
そばや道の辺りに、飢えて死ぬ類の人間は、とても数えきれない。

その死体を取り除く手段もわからぬので、死体から発する、臭いが
都の内にいっぱいひろがり、腐乱して次第に変り果ててゆく、死体
の容貌かたちは、あまりひどくて、じっと見ていられない。」
…鴨長明『方丈記』より

左京の範囲内の死者数は 四万二千三百人
「・・・仁和寺で、隆暁(りゅうぎょう)法印という人は、
こんな状態のまま、わからないくらい死んでゆくことを悲嘆
して、死人の首の目に入る度に、その額に阿字を書いて、仏
道に縁を結ばせる行為をなされた。その死人の数を知ろうと
して、四月・五月の二カ月にわたって計算したところ、京都
市内で、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀大路か
ら東、すなわち、左京の範囲内で、道ばたにあった首は、全
部で四万二千三百あまりもあった。

まして、この四、五月の前後にも死んだ人はたくさんおり、
また、賀茂の河原や白河や西の京や、そのほかの、ありとあ
らゆる、畿内の辺鄙な地方などの死者の数を加えて言うなら
ば、きりもないであろう。なおましてや、七道に属する国々
のそれを加えたら、どれほどになろうか。」

『方丈記』現代語訳:安良岡 康作氏



養和元年は、わが世の春を謳歌していた平清盛が熱病で亡くなった
年でもある。その当時の庶民には、賀茂の河原や嵐山での花見をす
る余裕などなかったに違いない。
昨年、一昨年と日本列島を襲い、甚大な被害を被った自然災害、そ
して、今年は新型コロナウイルスが都市部を中心に列島を席巻して
いる。『方丈記』を読んでいると、偶然とはいえ現代と状況が似て
いるように思えてならない。

…おごれる人も久しからず

ただ春の夜の夢のごとし

たけき者もついにはほろびぬ

ひとへに風の前の塵に同じ

ちかごろの世相を思うと『平家物語』の冒頭が思い起こされる。
驕ったヒトに対するウイルスの警告だろうか。

平安時代の疫病については、「平安王朝文学に現れた病と その療法
そして日本におけるマラリアを叙述した「源氏物語とマラリア」ご覧
ください。