津軽半島最北端の集落-竜飛と袰月をゆく

竜飛崎は人間に飼い慣らされていた !?

上野駅から東北本線を走る夜行列車、十九時発「八甲田」に乗車し、青森駅に朝早く到
着したのは十時間ほど経ってからのことか。そこから又、ジーゼル機関車の曳く列車に
乗換えて三厩駅に着く。さらに駅前からバスに乗換えて終点である竜飛崎には昼頃に
ようやく到着したものだ。

写真奥に見える岬の蔭に袰月がある
竜飛は青函トンネル工事のまっただ中 奥州街道の延長もこの先でお終い!

竜飛崎は太宰治が『津軽』で書いていたほどには荒々しくは感じられなかった。
鶏小屋に頭を突っ込むようなこともなく、いささか拍子抜けをした記憶が残って
いる。時代が違うと言ってしまえばそれまでのこと。道は舗装されていたので歩
くには障害はなく、岩場を歩いて波を頭から被るようなこともなかった。

太宰が宿泊した旅館、と書いてある家の前を通り、まずは竜飛崎に登る。

津軽海峡の彼方に、かすかだが北海道が望める
山の斜面に少しばかりの畑が見える

竜飛で一泊する予定だったが、予定を変更し三厩駅まで徒歩で行くことに決める。

余談だが、長州藩を脱藩した吉田松陰は日本海側を歩いて竜飛崎を訪れている。
小泊から磯伝いに、山を登り谷を越え、この地に来るには相当難渋したようだ。そ
れほどまでして蝦夷地を見たかったのか。それとも度重なるロシアの訪問(来襲?)
に危機感を持っていたのだろうか。案外、隙あらば異国の船に乗り外国へ渡りた
かったとか?(新島譲の例もあることだし)。
竜飛からの帰路、吉田松陰は南部藩鹿角を訪れていて、私の師匠(?)内藤湖南
先生の父君である十湾先生と膝を交えて語ったそうである。十湾先生は吉田松陰
の考えに傾倒したと伝わっている。
またまた蛇足だが、湖南先生と露伴は京都帝国大学で教授仲間だったそうな。夏
目漱石も仲間に加わる予定だったが、「千駄木を離れたくない」という理由でそれ
は適わなかった。もし湖南・露伴・漱石先生がそろっていたなら、ワタシは迷わず
お三方の講義を受けていたことだろうに(とんでもない妄想です^^;)。

袰月は今日も雨だった?

三厩駅前の旅館に泊まり、翌朝は「陽のあたらない村 袰月」まで、津軽海峡に面し
た雪道を二時間は歩いただろうか。

陽コあだネ村(ほろづき)

なるほど高木泰造氏の方言詩集『まるめろ』で読んだとおり、日当たりの悪そうな集落
だった。集落を往復しても、見かけた人はこのご婦人ただ一人だった。

袰月集落全景

わたしが津軽半島を訪ねてから五十年が経とうとしている。竜飛や袰月も相当
変ったことだろう。
「陽コあだネ村」はYouTubeでも聴けるけど、昔発売されていたレコ-ドの方
がわたしは好きだ。
※この記事は以前投稿したものを再編集しています。