松尾芭蕉 「奥の細道」(松島・雄島)を青春18きっぷでゆく旅

心は日本三景の松島へ
「おくのほそ道」をたどる旅、二日目は塩釜湾から始まった。歌枕に歌わ
れた松島は目と鼻の先である。塩釜から「青春18きっぷ」で電車で行くか、
それとも船で行くか決断しなければならない。芭蕉翁に倣い、ここは迷う
ことなく船で行くことに決定!
事前に乗船予約をすれば船賃が一割安くなるし、塩釜湾と松島の島々を堪
能できるのだから言うことありません。ひとつ残念なことは小雨が降って
いることだが、そこは “風流” としゃれこむとしよう。「霧さながらに 山
を包んだ雨も又なんとも言えない」と、いうではないか。

 

 

マリンゲート塩釜

朝一番(9:00)の遊覧船に乗り松島へ向う。乗船者はわたし一人だけ
だった。二階より上のデッキに登るには別途料金が必要。
大震災ではこの辺りも少なからず津波の被害にあったようだが、その
痕跡は見当たらなかった。

 

塩釜湾

塩竈神社の鎮守の杜(一森山)が見える。

 

わがせこを都にやりて塩竈の籬が島の松ぞ恋しき(古今和歌集)

“いとしいあの人を都に見送って、塩竈にある籬が島(まがきがしま)
の松ではないけれど、待つ(松)私はあなたが恋しくてたまらない”

 

塩釜は水産業の町として世間に知られているが、意外にも造船など重工業
も盛んである。

 

水産市場のようだ。

 

霧の中に重厚な建造物が見えた(火力発電所)。

 

突然小型漁船が白波を立てて現れた。

 

みちのくはいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(古今和歌集)

“みちのくはどこの景色もおもしろい。とりわけ塩竈の浦を漕ぐ小舟が、
引き綱で曳かれるさまは趣がある”

 

 

 

 

 

ん? コンクリートらしき人工物が見える(崩壊を防いでいるのか?)。
天を指さす「指」は何処へ?(大地震の爪痕のようだ)。

 

 

 

もそも、多くの先人たちの文藻に言いふるされていることではあるが、
松島は日本第一の絶景であって、まずは中国の洞庭・西湖に比べても遜
色がない。その地勢は、東南の方角より海を入れて入り海をかたちづく
り、湾内三里、かの浙江を思わせる満々たる潮をたたえている。島とい
う島のあるかぎりをここに集めて、そのうち、高くそびえるものは天を
指さす尊大の形を示し、低く横たわるものは波の上に匍匐膝行(ほふく
しっこう)する恭敬の状を呈している。あるいは二重にかさなり、三重
につみ重なって、左に分かれているかと思えば、またあるものは右に連
なっている。

小さい島を背負ったような形のものもあれば、抱いているような姿のも
のもあり、杜甫の詩にあるように、あたかも子や孫を愛擁しているかの
ごとくである。松の緑も色濃く、枝葉は潮風に吹き曲げられて、その曲
がりくねった枝ぶりは、自然のうちに、まるで人工をもって曲げととの
えたかのように思われる。その景色の美しさは、見る人をして恍惚とさ
せ、かの東坡の詩にいう、美女がいやが上にも美しく顔を化粧したかの
ごときおもむきがある。これは、遠い神代の昔、大山祇(おおやまずみ)
の神のなしたしわざであろうか。かかる造物主の霊妙な仕事をば、いっ
たい何人が彩管をふるい、詩文をおどらせて表し尽くすことができるだ
ろう。” (『おくのほそ道』現代語訳:穎原退蔵氏)

名文とも言える一章である。ここは是非とも原文を朗誦したいところだ。

 

 

 

雄島

海に面した南北に細長い小島が、歌枕になっている雄島(松島の名の
由来はこの島にあるという)である。

 

五大堂

小一時間で松島港に到着した。目の前には松島といえば ここ五大堂。

 

骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に物有。かりに名付て
風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにや
あらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごと
ゝなす。……
西行の和歌における、宗祇の蓮歌における、雪舟の絵における、
が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、
造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずとい
ふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあ
らざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、
造化にかへれとなり。」…松尾芭蕉『笈の小文』草稿冒頭の文

気迫のこもった文章である。松尾芭蕉という人はただの俳諧宗匠で
はない(わたしが言うのもなんですが)。

 

 

芭蕉翁と曾良は休憩をとってから瑞巌寺、次いで雄島に向ったと「随行
日記」に見える。わたしはザックを背負ったまま歩いてニ十分ほどの所
にある雄島へ直行した。「なに、すぐ瑞巌寺へ行くことになるのだから」
とたかを括ったのだ。貧乏旅行ゆえ気温三十五度の中、重たいザックを
預けることを惜しんだため、これが後々体の負担になってくるのだ。

 

雄島入口

 

切通し

 

 

小さいとはいえ鎌倉のように切通しがあるとは知らなかった。

 

ノミ跡も生々しい。文字のようなものが彫り刻んであった。

 

ほそ道を歩くと真新しい赤い橋が見えた。

 

渡月橋

島に橋が架かっていると、昔は「地続き」と言ったのだろうか。

 

 

 

 

橋を渡ると多くの人は真っすぐ進むか右手方向に向うが、へそ曲がりの
わたしは左の方向へ折れて進む。

 

磨崖仏

 

 

石仏が石窟の中に立ち並んでいる。

 

千手観音か?

 

弁財天?

 

 

 

 

島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、
座禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人もまれ見えはべり
て、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵、閑かに住みなし、いかな
る人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海
に映りて、昼の眺めまた改む。」

 

凝灰岩を穿った隧道がある。住居としても利用できるほどの広さがある。

 

岩窟(隧道)の壁面に文字が刻まれている。修行者が刻んだのだろうか。

 

 

 

隧道を通り抜けると、そこには広い空間があった。岩窟内には石仏、
墓石、五輪塔が所せましと刻まれ、あるいは置かれてある。島内に
は岩窟が百八つあったと言うが、今に残るのはその半分ほどか。

 

修行者、あるいは身内を失った者への思い(情念)が伝わってくるよう
な雰囲気があり圧倒される。深夜この場に居れば、冥界への入口と錯覚
するのではないだろうか。夜再び高野槙の小枝を手にし、この場所を訪
れて井戸を覗き込んで見たいものだ(そんな勇気はないけれど)。

 

見仏上人が十二年間修行をしていたと伝わる場所はここだろうか。
もしそうなら、かの義経も平泉へ行く途中、ここへ立ち寄ってい
るはず(『義経記』にその記述がある)。

 

 

 

島の北側の高台に登る。

 

板碑、石碑、石仏が立ち並んでいる。

 

 

 

みごとな線刻である。

 

 

 

 

 

海(日出る方角、海に映る月)に向って石碑が建てられている。
先祖、あるいは海で亡くなった者の供養だろうか。海側に回っ
て写真を撮ろうとしたが、転落しそうになったので止めた。

 

妙覚庵跡

鎌倉時代の名僧頼賢の草庵跡である。この場所で二十二年間
島から出ずに修行していたのだとか。

 

??

鬼の雪隠にしては小さいし、石塔の一部? 窪みにミニ仏を置いて拝ん
でいたとか…

 

芭蕉翁松島吟並序碑

 

 

 

 

 

 

草書で文字が刻まれているので読めません。

 

さて島の南へ向うとしよう。

 

またまた怪しげな雰囲気になってきた(階段を右へ降りていくと隧道)。

 

雄島最古の板碑

どちらが最古の板碑だろうか?(左のような気がするけど)

 

再び岩窟群が現れた。

 

 

 

これもみごとなレリーフだ。

 

 

 

 

 

岩窟は修行の場であり、死者供養の霊場でもあったのだろう。
千年の時を経てだいぶ風化が進んでいる。

 

 

芭蕉翁と曾良の句碑

 

 

 

 

島々や千々に砕けて夏の海

芭蕉翁は松島では「感動のあまり句作を断念した」というが、
実際は詠んでいたようである。

 

 

把不住軒(雲居禅師の別室の跡)

 

の歌枕に知られた雄島が磯は、地続きに海に生れ出た島である。
ここには雲居禅師の別室の跡、座禅石などがある。また、松の木陰
に世のわずらいを避け隠棲している人の姿もごくまれに見えて、落
穂・松笠などをかしぐ煙のうっすらと煙っている粗末な庵を、いか
にも閑静に住みなしているようす、どういう素性の人ともわからぬ
ながら、何より、先に心を引かれて立ち寄るうちに、いつしか月が
上がって海上に映り、昼のながめとはまたすっかり変った景観を呈
している。”(現代語訳:穎原退蔵氏)

雲居(うんご)禅師は、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚のそのまた
師匠にあたる人なのだ。

 

雄島の南端には頼賢の碑が建てられいる。

 

頼賢の碑の鞘堂

内部には頼賢の徳をたたえる文や松島の昔の様子が刻まれている
石碑がある。格子から中を覗いてみると石碑らしきものが見えた。
そのレプリカは瑞巌寺宝物館にあるので、刻んだ文章を知りたい
方はそちらへどうぞ。

 

 

 

頼賢の碑の傍らにあった石碑。文字や絵が刻まれている。

 

双子島(雄島より望む)

雄島は月見をするには恰好の場所である。満月の夜、月明かりが描く
金色のさざ波は、まるで「月の道」のようだという。

 

「松島の月まづ心にかかりて」


松島の月を眺めることは芭蕉翁の望みであった。

 

辺に帰って宿をとると、海に面して窓を開き、二階造りになって
いて、こうして眺望をほしいままに、いわば大自然の風光のただ中に
身を置いて旅寝するのは、まるで仙境に身を置くかと思われるほどす
ばらしい気分のされることだった。

松島や鶴に身を借れほととぎす(曾良)

曾良はこんな句を作ったが、自分はというと、待望の絶景に接して、
もはや句をよむどころではなく、句作を断念して、さて眠ろうとして
も、感激のあまり眠ることができない。芭蕉庵をあとにするとき、旧
友素堂が松島の詩を作ってくれ、また原安適は松が浦島の和歌を贈っ
てくだされた。眠られぬままに、頭陀袋をひもとき、それらの詩歌を
取り出して、こよいの心を慰める友とする。袋の中には、また杉風や
濁子の贈ってくれた発句もあった。”(現代語訳:穎原退蔵氏)

 

義経は塩釜を離れると松島に入り、雄島の見仏上人の
旧跡を訪ね、松島明神に祈誓し姉歯の松を見て平泉へ
と入ったのだ。そしてまた芭蕉翁も義経を追うように
松島まで来たのである(芭蕉翁もまた『義経記』を読
み、その足跡をたどっていたに違いない)。
芭蕉翁は歌枕の跡を訪ね、義経の足跡、そして西行の
足跡を訪ねたのである。故人への思いは計り知れない。
松尾芭蕉四十六歳(わたしより二十歳以上若いや!)、
世間的には名声を得、いまや風流隠者となった芭蕉翁
は、この先いったい何を追い求めるのだろう。

※続きます。次回は「松島瑞巌寺  一の関編」です。

 

 

 

 

 

 

    松尾芭蕉 「奥の細道」(松島・雄島)を青春18きっぷでゆく旅” に対して 2 件のコメントがあります

    1. koji-kame より:

      雄島は塩釜の人から聞いて行ったのです。これまで芭蕉どころか松島さえ大して興味はありませんでした。調べて分かったのですが、雄島は瑞巌寺の“別院”のような役割をしていたようです。観光客は少なく(と言っても二時間いた間十人ほどいました。半分は欧米の観光客)。独特の雰囲気がありました。静かな雰囲気が長く続くとよいのですが。
      今回の旅は、露伴の評価する芭蕉を調べてみよう、という気持ちから始まりました。それと露伴と菅江真澄の足跡をたどってみたかったからです。西行、芭蕉、菅江真澄、露伴の足跡はかなりダブります!

    2. ken より:

      松島には随分と昔に2度ほど行った記憶があるのですが、船の上から鳥に餌をあげた記憶しか残っていません。
      こんなに色んな所があるんですね。
      初めて知りました。
      次に行く機会があれば、雄島にも行ってみようと思います。

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