東大寺戒壇堂に広目天、三月堂に不空羂索観音を拝む

 

抒情的な奈良の写真を撮る写真家といえば入江泰吉氏。その方の旧居
を通り過ぎると、すぐに東大寺戒壇堂に突き当たる。少しばかり勾配
の急な階段を登りきると、そこは名にし負う戒壇堂である。
“戒壇院”が建立されたのは天平勝宝七年(755)のこと。創立当時は
金堂、講堂、回廊、僧坊などがあったというが、いまその面影はなく、
三度の火災で創建当時の伽藍はすべて灰燼に帰した。

 

 

戒壇堂山門

半世紀の間に東大寺へは幾度足を運んだだろうか、そのたびに戒壇堂
の四天王のお顔が頭の片隅にあった。そのお顔は土門拳氏が撮影した、
あの厳しくもあり、知性を隠したかのような撮影者本人の顔とどこか
ダブってしまうようなお顔である。そんな思い入れのある四天王像で
あるが、訪れるのは今回が初めてなのだ。

 

 

戒壇堂


四天王像が世に知られるきっかけ

広目天をはじめとする四天王像(塑像)が世間に知られるようになった
のは、いつごろのことであろうか。土門拳氏が撮影する以前から、それ
はある本によって知られていたのではないだろうか。その本は大正八年
に発表され幾多の困難を経てもなお読まれ続けていたが、太平洋戦争前
に紙型も摩滅し組みなおす時期に来ていた。ところが「その筋から『古
寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。」とい
う。と、ここまで書けば和辻哲郎氏の『古寺巡礼』か、と思い至るであ
ろう。和辻以前には、フェノロサや岡倉天心によって奈良の美術品が発
掘されていた(和辻は学生時代に岡倉天心の講義を受けていた)。

 

 

戒壇堂へ上がる階段

『古寺巡礼』は戦争末期、学徒動員される学生から「近く出征する
身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜ
ひあの書を手に入れたい」という申し入れを相当数受けたようだ。
あいにくその本が再販されたのは戦後の昭和二十一年のことである。

 

 


和辻哲郎と戒壇院

大正六年五月の黄昏どき、二十八歳の和辻は戒壇院の前に立っていた。
僧の開ける大きいかぎの響きを聞き、堂の中に歩み入ると「まずその
ガランとした陰鬱な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声
をつい洩らしたくなる。…この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れること
のないような厳粛なを受けたであろうに。そう思うとこの積もった
埃は実に寂しい。」「このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて四
天王が立っているのである。」
と、堂内に入った和辻は率直な感想を述べている。明治の廃仏毀釈の
後、東大寺戒壇院といえど忘れられたかのような状態であったのだろ
う。

 

 

広目天(左)と多聞天(右)

当日購入した絵葉書より。

 

 

 

わたしが戒壇堂を訪れた理由は受戒のためではない。世に聞こえた
広目天のお顔を直に見たいがためである。
その広目天であるが、写実的な相貌から思うには、兵馬俑の像がそ
うであるように実在の人間をモデルにしていたのではないだろうか。
頭の大きさから比べると胴・腕・手・足がとても華奢に見える。と
りわけ手は婦人のもののように繊細でなめらか、後からくっつけた
かのように違和感を感じた。

 

 


広目天像の視線の先には

広目天は眉を眉間によせてどこか遠くを見つめている。右手には筆、
左手には巻物を持ち、いったい何をしているのだろうか。正面から
参拝できればよいのだが、離れたところから仰ぎ見るしかないので
見当の付かないのが残念である。
後日調べたところによると、広目天の見つめていた方角は、“忖度”
や“統計不正”などの問題で騒がしい国会議事堂の方角(?)であっ
た。どうりで厳しい面持ちのなかに憂いを帯びた表情であることに
納得した次第である。

 

 

戒壇堂基壇

四天王のうち、広目天と多聞天は同じ作者の手になるものと思われる。
その理由はといえば、お顔の雰囲気が兄弟のように似ているから…。
多聞天を激しい性格の兄とすれば、広目天は学問のよくできる優しい
心をもった弟というべきだろうか。

 

 

世に知られた戒壇堂の四天王であるが、四天王はもとは銅造のもので
あったがいまは無く。いまの四天王(塑像・天平時代)はほかの場所
(中門堂)から移されたものという。

 

 

では、もともと戒壇堂にあったという銅造の四天王はどんな姿だった
のだろうか。おそらくは治承四年の南都焼き打ちで大仏とともに熔け
てしまい、いまに残っていないので想像するしかない。

 

 

戒壇堂正面参道

※四天王の写真撮影はできませんでした。

 

 

戒壇堂を西南より望む

 

 

 

戒壇堂を東南より望む

 

 

 

戒壇堂“裏参道”

裏参道を通って、次に向かったところは三月堂(法華堂)。

 

 

 

三月堂(法華堂)

なぜ三月堂に来たかといえば、東大寺で数少ない天平時代の建物
とそこに祀ってある「不空羂索観音」をじっくり拝んでみたかっ
たからである。

 

 

不空羂索観音像に圧倒される
薄暗い正堂のなかに見る、狭い堂内に押し込められたかのような
不空羂索観音を中心とする巨大な十体の仏像群には圧倒され言葉
もない。意外にも長い時間を越え仏の体にまだら模様となり残っ
ている金箔、切金、そして彩色は感動的でさえある。天井の複雑
な構造、柱、そして梁の力強さ素朴さは先人たちの優れた手わざ
の賜物だろう。

 

 

天平時代の扉

甦った記憶
不空羂索観音と相対するのは初めてと思っていた。ところが、正堂
の西側の連子窓から入る光に照らされて、掛けられていた幔幕の文
様が一瞬浮び上がった、かに見えた(もともと染められていた文様
であるから突然浮び上がるはずはないのだが)。
すると、五十年前にこのお堂に立っている自分の姿が見えたような
気がしたのである。初めてではなかった。不空羂索観音を拝むのは
今回で二度目だったのである。そんな記憶がよみがえる不思議な感
覚を味わった。

 

 

天平時代の連子窓

 

 

 

三月堂正堂北面

 

 

 

三月堂正堂北面扉

 

 

 

三月堂正堂を二月堂より望む

 

 

 

三月堂(法華堂)西面

写真左側の寄棟造りの正堂は天平時代、右側の入母屋造りの礼堂は
鎌倉時代の建物で、ほぼ中央部分でつながれている。大棟の直線、
降り棟の流れるような曲線と本瓦葺の屋根の面の美しさにはため息
が漏れる。