京都御苑早春譜

 

 

 

“春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。
春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋はかよひ、
秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、
梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむには
あらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。
迎ふる気、下に設けたるゆゑに、待ちとるついで甚だはや
し。

※上の写真は、京都御苑越しに望む東山の夜明け。

 

 

 

 

生・老・病・死の移り来る事、またこれに過ぎたり、
四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、
覚えして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。”

…『徒然草』第百五十五段より

 

 

 

なにかと鴨長明と比べられる兼好法師である。
ある人が言うには「西行は自然だけを見、長明は自己だけを、
兼好は人間だけを見ていた」という。はたしてそうであろうか。
『方丈記』の冒頭「行く河の流れは絶えずして、しかも、もと
の水にあらず。…」にしろ、兼好法師の『徒然草』第百五十五
段で述べていることにしろ、実によく自然を観察している。

「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりき
ざしつはるに堪へずして落つるなり。」など、不覚にも “目か
ら鱗が落ちた” 状態になってしまった。というのは、その段を
読んだ後、秋から冬にかけてモミジの芽吹きを観察したことが
あった。実際、兼好法師の書いた通りであった。
う~む、これは「自然の弁証法」ではないか、などとこの段を
読み感心してしまった。

 

 

 

 

『自然の弁証法』とは19世紀のドイツの思想家が著した”草稿”
だったような。鴨長明や兼好法師は、それより数百年早く、自然
を観察して弁証法を会得していたのである ⁉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠くに見える山は鞍馬山。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の風景の特徴
日本の風景は、日本の風景としてある特徴をもっているという。
世間一般では桜の木(花)が、ここかしこに見られるが、もう
一つ日本を代表する木には松の木がある。
たとえば松の生えていない山の稜線を、松の見当たらない高山
の岩肌を、水墨画で、霞立つもやの中に黒く浮き上がる松のシ
ルエットが無かったなら。……
そのような光景を想像できるであろうか。しつこいようですが、
もし日本三景のうちの “松島”の島々に、もし丹後の “天橋立”に、
あるいは又 “三保の松原”(日本三景に非ず)に松が無かったと
したなら、日本三景に選ばれるどころか、 何の趣もない景色で
あろうし、歌に詠まれることもなかったであろう。

 

 

 

 

 

京都御苑の松
自然の景色や神仙の思想をこじんまりとまとめた庭園についても、
それは当てはまるように思える。松の無い庭園はどこかさみしい。
趣がない。雪の降る朝に、窓外に真綿のような白い雪をかぶった
松が見られないのは想像もしたくない。ところが大抵のひとは、
桜や梅の花に目はいっても、松の枝葉は目に留まらない。あまり
に当たり前すぎて、空気のような存在なので気にもしていないの
だ。
その松だが、京都御苑には夥しいほどの数の松が植えられている。
樹齢数百年の松はざらにあり、その枝ぶりを愛でて写真撮影をし
ている人は欧米の観光客ばかりである。
苑内には約五万本の樹木があり、その一本一本には番号が打たれ、
管理されているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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