大原宝泉院 侘びの意匠 Hosenin Temple “Wabi-sabi”

 

三千院の門前をすぎ、律川(りつせん)にかかる橋を越えると、
正面に“大原問答”で名高い勝林寺の大屋根が見える。その寺の
西隣にめざす宝泉院がひっそりと佇ずんでいる。
※一部モノクロ写真があります

 

 

勝林院前の石垣

石垣にかこまれた参道を 小石の立てる音に耳をそば立てながら歩く。

 

 

 

宝泉院参道

青モミジのトンネルをくぐり抜けると すぐそこは宝泉院。

 

 

 

宝泉院山門

かつては勝林院の僧坊の一つであり、長和二年(1013)に創建された。

 

 

 

五葉松

庭には樹齢七百年といわれる松が植えられている。

 

 

 

 

一説には近江富士を象っていると伝わる五葉松。

 

 

 

書院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。

われわれの座敷の美の要素はこの間接の鈍い光線に他ならない。」

……『陰翳礼讃』より

 

 

 

 

 

 

 

“額縁庭園”  盤桓園(ばんかんえん)

 

日本の家の美しさは どこにあるのだろうか。
そのことを言う前に、現代の家に “美” はあるのだろうか。そんな疑問が頭に浮ぶ。
わたしの住む家を外からみても、内部を見まわしても、お世辞にも美しいとは自信
をもって言えない。
小説家の谷崎潤一郎氏は、日本家屋の “陰翳” にこだわりのある男だった。
あるとき 京都では有名な料理屋「わらんじや」へ入った。昔ながらの燭台が電灯に
代わっていたのを元通りに直させ、ひとり静かに燭台のほのかな炎を眺めながら 酒
を飲んだ。『陰翳礼讃』は そんな場での着想だろうか…

 

 

五葉松

書院は文亀二年(1502)の再建である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花頭窓

 

 

 

 

障子の窓

 

 

 

 

 

 

「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを
余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがて
は美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く
陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。」
……『陰翳礼讃』

日本家屋の美はどこにあるのだろうか。
それは どこに残っているのだろうか。
わたしの「古寺巡礼の旅」と「日本家屋探訪の旅」は、そんな思いを胸にして
三十年前に この地大原より始まった…

 

 

宝泉院庭園

 

 

 

 

 

寺を出て もと来た道をふたたび歩く。

 

 

 

“大原問答”で名高い 勝林院

 

ここで長々と法然の話をすることをご容赦ねがいたい。
浄土宗をおこした法然は、青春時代を比叡山で過ごした。かつては世を
いとうて山に入ったのであるが、今度は「世をいとうて山をいづる」の
である。およそ法然ほどあらゆる階級、あらゆる種類の人々に貴賤貧富
を問わず一心に念仏往生を説いたものはいなかった。「法然は一生無位
無官で、質素な草庵に住み、墨染めの衣をまとい、輿に乗らず、金剛草
履を履いて歩いた。」貴顕との結縁もあり、そのことが、後に比叡山の
僧などから疎まれ、親鸞などの門弟とともに災難を被った原因にもなっ
た違いない。
前置きが長くなったが、世に名高い“大原問答”のことを話そう。
これは天台座主顕真僧正が法然に念仏往生の要義を問うたことから始ま
った。「当日集まった顔ぶれを見れば、山門(比叡山)からは顕真大僧
正の外に…碩学三十余人、南都の学生二十余人、高野の明遍僧都、栂尾
の明恵上人……ら三百余人…法星一堂に集まるという光景であったとい
われる。」
法然の方でも弟子たちが事態を憂慮して、三十余名の弟子を引き連れて
立ち会った。容易ならぬ風雲が、静かな大原の地に漂ったという。ここ
に遅れて登場したのが、平家のわずか十五歳と伝わる平敦盛を打ち取っ
た熊谷直実(世の敦盛ファンからさぞ憎まれていることだろう)である。
鉈を隠し持ち勝林院にはせ参じた。

「しかしこの問答の席はかなり宗教家や、学者たちの集まりに相応しく
、公明に、進行したらしい。それも法然の言う所が条理が立っていて、
一々聖教に典拠がなくては主張しない。私の、勝手な説ではなくて、経
文に依り所があって、それを引証する。そうしてそうなれば博学なだけ
に博引豊証である。たいていの学者には歯が立たない。」けして他宗を
誹謗せず謙遜な態度であったと言われる。

問答が進むにつれ「結果はかえって浄土門の信仰の広大なことと、時代
と機とに一層適合していることを一座および聴衆たちに認めさせるよう
なことになってしまった。…法然の信仰の確実で、情熱があるのと、そ
の人物、学問が図抜けて立ち勝っていることが露骨になってくるので、
次第次第に法然が皆に法を説いているような貌(かたち)になったらし
い。そしてついに一種の法悦のような空気が一座に生じてしまって、顕
真僧都自ら念仏を唱えて焼香し、皆々がそれに倣って、念仏焼香し、唱
名の声が一堂を揺がすというような結果になって、この宗教会議は事実
上法然の勝ちに帰し、諸宗派が浄土宗という新しい一宗派を承認したと
いうことを世間に公布する機会となってしまった。

法然自らはこの時のことを後日門弟に話して、
“議論においては互角であったけれど、根気において自分の勝ちに帰した
のだ”と言った。それで見ても、法戦がかなり激しいものであったことが
想像される。」という逸話がある。
なお、熊谷直実が用の無くなった鉈を捨てたと伝わる“鉈捨て藪跡”の碑が、
律川のたもとに建っている。謂れをしらなければ見過ごしてしまいそうな
碑である。
※引用は倉田百三著『法然と親鸞の信仰』より

 

 

大原田園風景

 

 

だいぶ以前のことだが、田植えの時分にぶらりと大原を散歩していたところ、
絵に描いたような美しい景色に出会った。あっと、息をのむような景色であ
った(実際にカレンダー写真で見た記憶があった)。満々と水が張られた田
んぼに、見事に咲き乱れた燃えるような赤い色の霧島つつじが水面に映って
いたのである。一本や二本ではなく、波を打ったように連なる霧島つつじの
群落である。……その後がいけなかった。農家の庭先から大型犬が吠えなが
らわたしに向って走ってきたのだ。景色の観賞どころではなく、慌ててその
場を去るしかなかった。

先だってその田んぼを訪れたところ、周囲がフェンスで囲まれ、誰も立入り
が出来なくなっていた。鹿よけか、それとも “人よけ” か残念なことである。

 

※撮影年:モノクロのみ1980年代