冬の気配 ‐ 十三湖

 

十三湖周辺の風景は物悲しい。
かつて(中世鎌倉時代)この周辺には、数多くの寺院と城があったことが
分っている。近年都市遺構の発掘も進んでいると聞く。
私が訪ねたころ、それが想像できないほどに さびれてしまっていた。

江戸時代の紀行作家菅江真澄は十三湖北部の村々の寺院跡を訪ね歩いている。
当時から安倍の一族の古い館跡が相内の里(市浦村)にあったことが知られ
ていたので村人に案内を頼みそこを訪ねた。「高い草をなぎはらい、木々の
間から望むと、岩木山がなかばほど、南の雲のきれめから姿をあらわし……
十三の部落は貝などをふせたようで、湖は藍をうちながしたかとみられ…」
と『菅江真澄遊覧記』に書いている。
真澄は、遠い昔十三のあたりには家が多く栄えていたということを『十三往
来』という書物を読んで知っていた。

 

 

女がふたり、岩についた貝か海藻を採集しているのだろう。
遠くうっすらと海に浮ぶ山並みは北海道の山々である。

 

 

十三湖

橋を渡り対岸に向かう。

 

 

 

 

船着き場には、小舟と作業小屋らしき家が並んでいる。

 

 

 

 

杉皮葺だろうか物置小屋とおぼしき建物と遠くには廃船が見える。

 

 

 

 

まさしく廃船、船の墓場なのだろう。夏場、遠くに見える東の山々に厚い雲が
かかると、飢饉をもたらすヤマセが来襲すると言い伝えられている。

 

 

 

黒い牛

人けのない集落に和牛が一頭、私の方を見ている。

 

 

 

十三湖の集落

 

右手の湖が十三湖、左手の砂防林の奥には日本海がある。画面中央に権現崎が
見える。中世には日本海を巡る船が行き交い、相当なにぎわいを見せた有数の
港(十三湊)であった。十三湊は本格的な都市設計のもとでつくられた中世都
市であるという。出土した食器には中国製、朝鮮製の白磁、青磁、染付などが
あった。

 

菅江真澄は小泊から十三を通り、鰺ヶ沢に向かう。途中、堂の前と呼ばれてい
る「このあたりの土を掘ると、瓶子、小甕、小壺……むかしの土器のかたちを
した器を掘りだすことがある。それで、ふるく瓶が岡(亀ヶ岡)の名があった
……」と書き記しこの村に宿を求める。その家の主は缶(ほとぎ)の形をした
小瓶につばを吐いたという。その器こそ亀ヶ岡遺跡からの出土品であろう、と
真澄はいう。江戸時代、すでに亀ヶ岡遺跡からの出土品は珍重され、江戸で数
寄者に人気があったというから驚く。分る人にはわかるのである。その時代に
何と海外にまで渡っていたとか…

後年(といっても現代の話)、考古学の研究者が『菅江真澄遊覧記』を読み、
「堂の前」という地名をたよりに地面を掘ったら遺跡が出た、という一見作
り話のような本当の話がある。

 

 

 

シジミ採り

十三湖は汽水湖なので良質のシジミが採れる。水深は深いところでも
二、三メートルとか。

 

 

 

権現崎

 

岬の名は権現崎といい、山の向うには小泊その奥には津軽半島の先端、竜飛岬が
ある。江戸時代には、長州藩を脱藩した吉田松陰と兵学者宮部鼎蔵が小泊を越え
竜飛岬まで来ている。徒歩でここまで来たのであるから、相当難渋したことであ
ろう。吉田松陰は旅の途中で “宿敵” 会津藩にも寄っているようだ。

 

 

 

荒れる海

 

 

 

 

光る波

 

 

 

 

光る海

 

 

※撮影年:1970年代前半
「津軽紀行 秋」はこれで一旦終りとし、冬の写真は後日投稿します。