津軽の縄文遺跡と飢饉

 

近年、“縄文”や“土偶”をテーマとした「美術展」が多く開催展示されるようになり、
またテレビや雑誌にも話題を提供している。その縄文遺跡だが亀ヶ岡遺跡、三内丸
山遺跡をはじめ青森県でたくさん発見されているのだ。一万年前、この地方が世界
で一番食べ物が豊富にあり、縄文人は豊かな生活を送っていたということを想像で
きるだろうか。彼らは海と湖、河と山の傍らで採集、狩り、漁労をして、定住した
生活を送っていた。鮭は食べきれないほど河をさかのぼり、縄文人のふところに飛
び込んできたのである。ところが長い長い時をこの地で過ごしてきた縄文人が、消
えてしまったようである。ある日を境に突然いなくなった、ということだろうか。
どうして消えたのかいまだに謎なのである。
遮光器土偶といい、火炎土器といい、その用途が分らず謎に満ちているではないか。

時代はさがり、弥生人といわれる人々が稲作文化を西日本から持ち込んだのだろう。
しかし、冷涼なこの土地には稲作は向いていなかった。それ以来、文字で記録され
た飢饉の歴史は数えきれない。

 

十三湖西岸

“遮光器土偶”で有名な亀ヶ岡遺跡は、ここより少し南にある。

 

 

 

 

集落の外れや田畑の片隅には、必ずといってよいほど寂びれた墓地があり、
お地蔵様の祠がある。そのどれからも お山(岩木山)が望める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集落の外れに祀られたお地蔵様。

 

 

 

 

 

 

 

 

農家の屋根

煙り出しの形に津軽武士の矜持を見た思いがする。津軽藩の何代目の藩主だったか、
武士が農村に入り米の増産に取り組んだことがある。その名残だろうか。

 

天明五年(1785)、江戸時代の紀行作家 菅江真澄が天明三年の飢饉の後に
津軽地方を旅し、見聞きしたことを『菅江真澄遊覧記』第一巻(外が浜風)
に残している。長くなるが引用したい。

“道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田町)
という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白
骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨な
どの転がっている穴ごとに、ススキやオミナエシのおいでているさまは、見る
心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞
いて、
「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明三年の冬から
四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数
知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふ
さぎ、往来の人は、それを踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやま
って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足をふみ入れたり、その
臭い匂いをご想像なさい。
なおも助かろうとして、生きている馬をとらえ、くびに綱をつけて屋の梁にひ
きむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹にさして裂き殺し、したたる血をとっ
て、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。・・・
そのようなものも食いつくしますと、自分の生んだ子、あるいは弱っている兄
弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差
で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食っ
た者はつかまって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎ
らぎらと光、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々
にいます。」・・・

と泣きながら語って村人は去っていった。この話は真実であろうかと、過ぎ去
った日の惨状を菅江真澄は偲んだという。

”「天明凶歳録」(北田一右衛門記、天明五年十二月、青森県叢書)をみても、
天明三年十月から翌四年八月までの餓死者十万二千余人、死に絶えた家三万余
軒、病死者三万余人、他国へ転退した者八万余人などとあるほどひどかった。
真澄がいったのは、それからなお一年後だったから、もっと被害数は増加して
いたろう。そしてその天明五年も、また先年におとらぬ飢饉であった。・・・
同じ青森県内でもことに津軽藩は、そば、ひえなどの雑穀の多い南部領とはち
がい、水田耕作にたよっていたせいもあって、寒冷による凶作が続き、当時、
不穏な情勢にあった。”
・・・内田武志氏「外が浜風」解説より