北方の地 津軽 ”Unbeaten Tracks in Japan”

 

私が働いていた職場に津軽出身の先輩がいた。秋の彼岸に田舎へ帰るというので
私も連れて行ってもらった。「津軽の人の生活が見たい」と言うと、「東京と同じ」
と苦笑していた。なるほど、その先輩の家はリンゴ農家だったが東京で見かける普
通の家と同じで快適な造りだったし、普通にカラーテレビを居間で見ていた。どうや
ら私には先入観があったようだ。

ところで英国人女性 Isabella・L・Bird という名の旅行作家(写真家・地理学者)
が、明治十一年(1878)に日本を訪れ東北・蝦夷地を旅し『日本奥地紀行』を著し
、主に北日本を欧米に紹介した人物がいたことをご存知だろうか。当時、その全行程
を馬あるいは徒歩で踏破したヨーロッパ人はだれ一人いなかった(外国人には東北・
蝦夷地の情報を得ようとしても、全くといってよいほど得られない状況であった時代
である)。『日本奥地紀行』に当時の津軽地方の農民の生活を記述したところがある
ので是非とも紹介したい。

 

「途中通ったいくつかの農村の人々は非常に原始的な家に住んでいた。まるで木の枠
組みに手で土を塗りつけたような土壁の露出する家だった。その壁は内側にやや傾
き、草葺きの屋根は粗末であり、軒は深く、軒下には木材が実に雑然とうず高く積ん
であった。煙出しのある家はほとんどなく、たいていの家では、まるで英国の煉瓦焼
き窯のように、至る所から煙が出ていた。窓はなく、壁も垂木も黒光りしていた。薄
暗い家の中は二つの部分に分かれており、一方には鶏や馬が、他方には人間が住んで
いた。家の中は素裸の子供でいっぱいだった。

そして夕方再び通りかかった時には、男女の別なく諸肌になった大人たちが家の外に
座り込み、その傍らにはお守りだけを身につけた素裸の子供たちと数匹の大きな黄色
い犬がいた。犬もまるで家族の一員のようで、犬の顔も、子供の顔も、大人の顔も、
すべての顔が穏やかで、満ち足りた感じがした!

たくさんの良馬を所有しており、豊かな作物にも恵まれている。祭の日にはきっと、
たくさんもっている着物の中から選んだもの(晴れ着)を着るのであろう。身の回り
のものに関する限りそんなに貧しいとは思えない。非常に辺鄙なところに住んでいる
だけのことである。彼らはこれ以上の暮らしを知らず、現状に満足している。ただ、
その住まいはこれまで見たもののうちで最もひどく、この素朴な楽園の人々は土埃に
まみれていた。週に一度沐浴するのかどうかさえも疑わしいほどだった。」
……東洋文庫『新訳 日本奥地紀行』第三十報より引用

私が津軽を訪れた90年余り前の記述である。事実をありのままに書いたというし、読
んでいて違和感は無かった。その後 彼女は関西を訪れ、奇しくも私が働いていたとこ
ろにも来訪していたことを、その本から知った。

 

 

 

 

 

 

 

身ごしらえ

おや、失礼…

 

 

 

稲藁くくり

後方に見られるように、この田では稲を乾燥させるのに、棒杭に同心円状に
稲藁を積み重ねる方法もとっていた。

 

 

 

豊作の年

見事なまでに稲穂がたわわに実っている。

 

 

 

 

とても天気の良い日で、秋の日差しが目に眩しかった。

 

 

 

脱穀作業

 

 

 

 

 

野焼きが社会問題化しはじめていた。

 

 

 

お山(岩木山)

五穀豊穣を願う山である。
岩木山は津軽平野のどの場所からみても美しい。金木町出身の太宰治によれば、
「…岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽
く浮んでいる感じなのである。したたるほど真っ蒼で、富士山よりもっと女ら
しく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左
右の均整も正しく、静かに青空に浮んでいる。」…『津軽』より引用

 

 

 

 

岩木川越しに望む津軽富士。橋を往復したことは覚えているのだが、撮影場所は
思い出せない。

 

※続きます。