下北半島を巡る旅

 

十代最後の年、私は夏と秋の二度下北半島を訪れている。一度目は恐山と
仏ヶ浦を中心に、二度目は脇野沢村と太平洋側の東海岸を見て歩いている。
脇野沢村には、世界で最北限に住むニホンザルが生息しているというので
興味があったのだ。

 

鯛島(脇野沢村)

鯛島にまつわる悲しい物語が伝わっている。村の娘と坂上田村麻呂との
悲恋物語である。坂上田村麻呂に捨てられた身ごもった娘が、悲しみの
余り海に身を投げ亡くなった。その娘の亡骸を島に葬ったというのだ。
それからは海が荒れ狂い、娘のたたりと恐れられたと伝わる。

 

 

漁からの帰り

 

 

 

脇野沢村の港

 

 

 

漁網の繕い

炎天下に網の補修をしていた。話を伺い写真を撮らせて貰った。
とても暑い日だったが、花笠を被っている姿はここでしか見なかった。
脇野沢村で撮影。

 

 

舟を曳く

“かぐら” というウインチで舟を陸に上げる。
かぐらは一見単純な造りではあるが、滑車を幾つか利用すれば信じられ
ないくらい力持ちなのだ。十字に手押し棒を差込み、四人で回せば家の
一軒くらい容易に曳家することができる。もちろんコロと呼ぶ長さ一尺
程の鉄パイプと板を使っての話だが。

 

 

砂浜に佇む家

 

 

 

漁に出る

一斉に漁に出る小舟を見かけた。陸奥湾に面した川内あたりで撮影
したのだろうか、記憶が定かでない。

 

 

光る海

脇野沢村の海岸線を歩いているとカモメが飛び立った。遠くの山並みは
津軽半島である。

 

 

釣りの帰り

釣りからの帰り道であろうか。炎天下に歩いてくる子どもに出会った。
カメラを構えると、恥ずかしいのか女の子は顔を手で覆ってしまった。
脇野沢村で。

 

 

九艘泊への道

九艘泊は昔蝦夷ばかりが住んでおり、江戸時代後期にまだその子孫が
住んでいたという記録が残っている。
九艘泊(くそうどまり)の名の由来は、臭い油が川を流れていたとも、
伐り出された木材で九艘の船を造ることが出来たからとも言われている。
九艘泊は、江戸時代には陸奥湾に面した集落では最果ての地として書か
れている。

 

九艘泊の港

ニホンザルの餌付け場からの帰途撮影。残念ながら、ニホンザルの群れには
会うことが出来なかった。鳴き声はするのだが、警戒して樹上から降りてこ
ないのだ。夕方近くだったのでサルも”家路”につくところだったのだろう。

 

 

午後の陸奥湾

九艘泊の山からの撮影。

 

 

民家の玄関先

何かの “おまじない” か玄関先にスルメイカが干してある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半島の西海岸か、それとも大間あたりで撮影したのだろうか、記憶が
定かでない。

 

 

スルメイカ漁の舟

夏はスルメイカ漁が盛んな季節。大間の港で撮影した覚えがある。

 

 

下風呂の港

下風呂の温泉宿に泊り、夕方漁火を見に港へ出た。沖合のスルメイカ漁の
漁火を撮影したが、手振れ写真ばかりでお見せ出来ない。
下風呂は古くから温泉のある場所として名が知られていた。その町並みも、
今ではすっかり変ったようだ。

 

 

尻屋崎灯台

彼方に北海道が見えるのだが、写真では判然としない。右手の海は太平洋。

 

 

 

最終のバスが出るのは二時間後。尻屋崎ではのんびり撮影出来なかっ
たのが残念である。

 

 

 

静かな様相を見せる海・・・

 

 

 

あの日(東北大震災)の津波でこの地も大きな被害を被ったはず。

 

 

 

下北半島東北端の地と思うと 感慨ひとしおである。

 

 

難破船

夏場にヤマセという強い東風が吹くという。その風が幾日も吹き続けると
下北半島や津軽半島の村々では間違いなく冷害に見舞われる。

 

 

 

 

田名部を中心としたこの地には、明治三年に戊辰戦争で敗れた多くの旧会津
藩士が、“ 罪を免ぜられ ” 「陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の
火山灰地に移封されわずか三万石(明治維新前には実質六十八万石)を賜う。
まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を
託せり。されど新領地(斗南藩)は半年雪におおわれたる痩地にて実収わず
か七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざること、このときだれ
一人知る者なし。」・・・『ある明治人の記録』会津人柴五郎の遺書。
※以下の引用も同じ

四千戸の藩士を養うことは困難なため、新領地に移封するもの二千八百戸と
なり、残りは “自由” とされたという。当然ながら藩主も新領地へ向かう。
住む家も原野に三、四坪の草葺の掘立小屋を建て「衣服は凍死をまぬかれる
程度…褥なければ米俵にもぐりて苦しめられる。」一日大人玄米三合の配給
を受け、刀を持つ手には鍬を持ち開墾に励んだが、米はもとよりろくに作物
は育たず、結局はほとんどの旧藩士は餓死寸前で離農したようである。
“移封”とは名ばかりの、 “流罪“ 同然の仕打ちに思えてならない。
まさに「公表をはばかるほどの悲惨な飢餓生活を続けた。薩長藩閥政府が華
やかに維新を飾りたてた歴史から、全く抹殺された暗黒の一節である。」

話は替わるが、靖国神社(当初は招魂社)は戊辰戦争で国家のために尊い命
を奉げた人々の御霊を祭るところ。“賊”の汚名をつけられた会津藩などの戦
死者は祭られなかった。会津藩士は死しても“賊軍”ということなのだろうか。

「東北に西南に、深い傷跡を残した明治維新は、薩長藩閥政府、官僚独善体
制を残して終った。この体制は今なお続いている。」「国家民族の行末を末
永く決定するような重大な事実が歴史の煙霧のかなたに隠匿され、抹殺され、
歪曲されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官
をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかを、われわれは身近に
見せつけられたのである。」

昨今の政治状況を見ていると耳の痛い話である。

 

※撮影年:1971年