霊場 恐山

 

釜臥山

釜臥山の向こう側に霊場恐山がある。

 

 

霊場恐山

正面に見える建物が地蔵殿。宗派は意外にも禅宗(曹洞宗)である。

田名部駅前からバスに乗り、霊場恐山に着いたのは昼頃だったろうか。
宿坊に宿泊の申し込みを済ませてから、霊場と宇曽利湖の周囲を散策
したことを覚えている。その日は風の強い日で、宇曽利湖は波立って
おり、荒涼とした雰囲気をより一層際立たせていた。

 

 

賽の河原

早朝の賽の河原。まるで月面のように見える。

 

 

賽の河原

宇曽利湖を三途の川に見立てているのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

夕日を浴びる賽の河原。

賽の河原を歩いていると、一人の老婆が私に近づいて来て、知らぬ名を
呼んでいる。老婆の娘さんらしき婦人が後ろから慌てて「違うよ、違う
よ!」と言っているのが聞えた。どうやら私のことを亡くした息子と思
ったようだ。同じ年ごろの息子さんだったのだろうか。

 

 

石積の周りから蒸気が噴出している。

 

 

 

 

 

 

 

一つ積んでは父のため  二つ積んでは母のため・・・
“賽の河原和讃“の歌が聞えてきそうな雰囲気である。亡くなった子は、
一日十二時間、石を積んでは鬼に崩され、再び積みだす…

 

 

 

 

 

 

早朝の宇曽利湖

 

 

 

 

早朝の宇曽利湖の湖面は、前日と打って変り凪いでいた。

 

 

 

三途の川(タイコ橋)

賽の河原からは離れた所に掛けられている橋。

 

 

焦熱地獄

向うに見える建物は地蔵殿。境内の至る所から蒸気が噴出している。

 

 

血の池地獄

 

 

 

 

 

 

 

地獄谷

 

 

 

卒塔婆

 

江戸時代の“旅行作家”にして本草家、医師、学者と言ってもよいほどの
人に菅江真澄という人がいた。菅江真澄は蝦夷地からの帰りに二年以上
下北半島に滞在(寛政四年・五年ー1792・93)し各地を見て回っている。
恐山にも三度訪れ、一度は例大祭にも訪れていてその時のことを次のよう
に日記に書いている。

卒塔婆塚の前には、いかめしい棚を造り、それに薄を刈って敷き、高い
イタヤの木を二本、左右にたてて、カラアオイ、ナデシコ、オミナエシ、
アジサイ…などの草花をあげて、七の仏の幡をかけて、あか水を供えて
ある。
御堂から柾仏といって、仏名を書いてもらったうすいそぎ板を、一本六文
の銭でもとめ、老若男女、手ごとに持ってきてこの棚におき、水をくんで
あげ、「ああはかないものだ。わが愛する花とみていた孫子よ、こうなっ
てしまったか、わが兄弟、妻子よ」と、あまたの亡き魂呼びになき叫ぶ声、
念仏の声が山にこたえ、こだまにひびいている。
小さい袋の中からうちまき(散米)をだして、水をそそいだ女が「わが子
がさいの河原にいるならば、いま一目見せて」とうち嘆いて、しぼんだナ
デシコをこの棚の上においた・・・『菅江真澄遊覧記』より引用

例大祭の間は日が暮れても大勢の人々が群れ歩き、とても賑やかで建物内
は人で満ちあふれ寝るところもなかったと伝える。

現代の例大祭では、イタコがテントを張り、“口寄せ”という、亡き人の魂
を現世に呼出しては語り聞かせるという。江戸時代にはそのような光景を
見ることは無く、戦後に そのような風習が始まったようである。

 

※意外なことに恐山は霊場であるが、四つの源泉を抱える保養施設でも
あったのだ。下北半島に暮らす人々に限らず、北前船で田名部に寄港し
た船乗りたちの疲れを癒す温泉地なのだった。

 

 

後生車

鉄の車輪を手で回し、ピタッと止まれば極楽へ、止まり掛けて一瞬反対方向
へ回れば地獄へ落ちると伝わる。
※五十年ほど前のネガなので画像が一部消滅している。

 

 

 

軍人の姿をした石仏も見られた。

 

 

 

境内にある小さなお堂には地蔵が祀られている。

 

 

 

故人が使用したであろう玩具や衣類などが奉じられている。

 

 

 

 

 

 

極楽の浜

賽の河原の側には極楽の浜がある。

 

 

 

宇曽利湖をまわるとこのような風景を見ることが出来る。

 

 

 

風になびく葦が怪しげな雰囲気を醸し出している(夕方の宇曽利湖)。

 

 

 

 

 

下北半島というと本州最北の地・辺境というイメージがある。一面真実では
あるが、海路を利用すれば交通の利便はそう悪いとは言えないのではないだ
ろうか。菅江真澄が下北半島を巡った時代は、北前船の寄港地として大間、
佐井、脇野沢、田名部などの幾つかの港があり、交易で裕福な人々がいたこ
とがその日記から読取れる。上方の情報や文化も北前船が持ち込んでいた。

江戸時代、下北半島の主な産業は漁業、林業であるが、忘れてならないこと
は、南部馬の産地であることだ。半島には「牧」と呼ばれる放牧地が幾つも
あり、足腰のしっかりした農用馬、軍馬を産出していた。積雪期はどうして
いたかと言うと、親馬は放牧したままなので飼料となる草はろくに無いので、
磯に行き、海藻を食べるという。そういう育て方の方が強い馬になるという
のだ。

撮影年:1971年

※次回は仏ヶ浦を投稿します。