津軽・川倉地蔵尊例大祭(後編)

 

イタコの “口寄せ”

イタコと呼ぶ霊媒者が死者の霊を冥途から呼び出し、イタコの口を通じて
語りはじめる。

 

 

あちらこちらのテントの下でイタコの口寄せが行われる。語りを聞き、
しんみりとしたり、涙を流す姿が見られる。人気のあるイタコは順番
待ちの時間が長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しつこいようだがイタコの “口寄せ” はまだ続く(現代ではまず見ることが
出来ない光景なので続けます)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口寄せを眺めるお婆さんの真剣な顔つき。

 

 

イタコの側では、疲れたのかチョット一休みの参詣者。

 

 

アットホームな雰囲気のイタコの語り口もあるようだ。「オラは冥途で
元気にやっているから、オメ達も仲良くして仕事に精を出せ」とでも言
っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

何と「心療内科」の先生にカウンセリングを受けているようにも見える。
右側のご婦人が盲目のイタコである。亡くなった子ども、あるいは戦争
で亡くなった夫からの便りを語っているのだろうか。現代のように「心
療内科」の無かった時代、イタコとは心の病を患った人々のカウンセラ
ーだった?

 

 

 

 

 

昭和初期には、五十名のイタコが川倉地蔵尊例大祭に来ていたという報道
がある。
私が川倉を訪れた昭和四十年代には十数名であった。今では数名ではない
だろうか。
イタコには南部イタコと津軽イタコの二つの流れがあるそうだ。南部イタ
コ(現在、二名が活動)の中には、高校に通いながら修行をしていたとい
う報道もある。為り手はそういないのだろう。昔はイタコといいゴゼとい
い盲目の女がなったものだ。

 

 

夜遅くまでイタコによる口寄せは続く。

 

 

夜の口寄せは不気味である。

 

 

カメラのトラブルか、こんな写真が出来上がった。心霊写真では無い
と思うのだが。

イタコの口寄せは川倉に限らず下北半島にある恐山でも知られている。
実は川倉や恐山の例大祭にイタコが登場するのは、それほど古い時代
ではないようだ。寛政五年(1793)六月に恐山を訪れた菅江真澄の日
記には、賽の河原で泣き叫ぶ参詣客の姿はあっても、そこにはイタコ
の存在は記されていない。どうやら戦後にお堂の軒下で参詣者相手に
「商売」し出したらしいというのだ。

 

 

しばし休憩

例大祭は三日間あるので疲れる。私は向うに見えるテントの中で、イタコ
と二晩雑魚寝した覚えがある。一夜の泊賃が二三百円だったような。

 

 

 

 

芝居小屋

境内の一角では芝居小屋が出ていて、歌や踊りが鑑賞できる。後ろには
青森交通のバスがあることから、遠くから団体で参詣する方もいたのだ
ろう。弘前や五所川原、遠くは北海道、青森市からも来たようだ。

 

 

 

 

ちょっとひと休み

 

 

川倉の兄ちゃん

後日、写真を送った。左側の兄ちゃんは橋幸夫似かな。

 

 

 

堂内での盆踊り

夜に入り法要もクライマックスに達し、盆踊り(津軽手踊り?)が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しつこいようだが盆踊り(の写真)はまだまだ続く。今ではこのような
姿を見ることは出来ないと思うので。

 

 

 

 

 

 

 

 

踊りは長い時間続く。だんだんと顔の表情も硬さがとれ、にこやかな
顔になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男の踊る姿は珍しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「川倉地蔵講中」の役員の方だろうか、この方が音頭を取っていたような
気がする。

 

 

またまたこんな写真が… カメラの操作を誤り多重露光になったようだ。

 

 

南無阿弥陀仏

今日はこれでお開き。・・・と思いきや

 

 

 

婆さん「爆発!」

爆笑だが「爆発!」と言った方がハマっている。

 

 

 

 

盆踊り二次会!

堂内での盆踊りに物足りないのか、再び真っ暗闇の屋外で踊りの輪ができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手拍子で踊りを盛り上げる。

 

 

掛け合いの踊り!

 

 

 

 

人気者の踊り

 

 

 

ア ヨイショ!

 

 

 

 

 

喝采を浴びていた元気なお婆さん。そろそろ終いにしないと夜が明ける。

 

 

 

あーぁこれで終いか、とでも思っているような姿(考えすぎかな)。

 

 

 

秋はすぐそこまで来ている・・・ふたたび辛い仕事が待っている。

 

江戸時代の旅行家にして本草学に秀でた菅江真澄(一時期、津軽藩の
お抱え医師になっている)は寛政八年(1796)六月十八日から二十日
にかけ川倉に滞在している。例大祭の二日前まで川倉に滞在していたの
だ。ところが川倉地蔵尊例大祭のことには一言も日記では触れていない。
すぐ北にある観音様には参っているのにである。
また二十日には、地元の男に見るべきところとして「源常森」という塚
を案内して貰っている。
そこには「神を祀った祠…朽ちた扉や折れた鳥居の柱などが、土のなか
に埋もれて残っていた。」とある。
・・・これはどういうことであろうか。

思うに菅江真澄が川倉を訪れたころは、まだ川倉地蔵尊がおかれていな
かったか、「見るべきところ」と地元の人には考えられていなかった。
そのいずれかではないだろうか。堂内の地蔵を調査した報告には、明治
後期の地蔵が最も古い、ということから、案外近代になってから川倉地
蔵尊の信仰が始まったのかもしれないと妄想しているのだが。

 

※撮影年月:1972.8
次回は下北半島にある霊場恐山を投稿します。