中宮定子眠る鳥戸野陵を訪ね、清少納言に思いを馳せる
御寺泉涌寺総門
中宮定子眠る鳥戸野陵へ
中宮定子様の眠る鳥戸野陵へ参るには御寺泉涌寺の総門をくぐる。
泉涌寺は皇室と深いつながりがあり、付近には江戸時代最後の天皇
である孝明天皇の陵墓や歴代の天皇が眠る月輪陵などがある。
鳥戸野陵分岐
右の道が陵へ通じる道。左側の道は今熊野観音寺へ至る。
「春はあけぼの…」で始まる『枕草子』は、古典の授業で必ずといって
よいほど出てくる上にテストにも出るので、心地よい思い出を持ってい
る人は、そう多くはいないのではないだろうか。しかし、ある年齢に達
すると『枕草子』の面白さが分ってくる、そんな気がするのだ。
が無ければ生まれてはこなかった、と言っては言い過ぎだろうか。草子
は、何とこの二つの作品の二百年以上前には書かれていたのである。
橋をくぐり抜け前へ進む。
その随筆の作者が女房として仕えていた主が、一条天皇の后である定子
様である。後に彰子様も中宮になり、二人の后が誕生したのである。
このいきさつには彰子の父である藤原道長の策があったようである。
というか、不思議な縁である。
た方々が仕えていたのであるから、この時代の“女流作家“(女房)とい
い、時代が生んだ文化人にはそうそうたる面々がいたということになる。
清少納言と紫式部の間には面識は無かったように思うが、紫式部の日記
を読みとくと清少納言にライバル心を持っていたようにも見える。
『紫式部日記』のなかで「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける
人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、
まだいと足らぬこと多かり。」つづけて、風流を気取ったひとは行く末
は異様なばかりにになってしまう、と清少納言の晩年の姿を知っている
かのように書いている。
清少納言は『枕草子』のなかで(紫式部の夫になる)藤原宣孝のことを、
吉野金峰山に参詣するのに派手な衣を着て参詣したことを人々の口を借
りて、昔から金峯山詣に派手な行装の人は見たことがない、と書いてい
たことへの仕返しと読み取れないこともない。
鳥戸野陵参道
ようやく参道入口にたどり着く。
参道を上り振返る。道の向こうは深い谷である。
参道わきに咲く紫陽花。
鳥戸野陵
どういうわけか大木は見当たらない。
京都市街遠望
鳥戸野陵の西側には市街地が見える。
晩年の清少納言は、中宮定子様の眠る陵の近くに住んでいたようだ。
父の清原元輔の別荘が月輪(東福寺付近)にあったとのこと、地理に
明るかったこともこの地に住む理由の一つだったのだろうか。
く降りて隔ての垣もなく倒れて見わたされしに、あともなく雪降る里
の荒れたるをいづれ昔の垣根とか見る」…『赤染衛門集』
と文献に残されているように、晩年は零落した様子が窺える。
あるが判然としない。思うに泉涌寺近辺、あるいは少し北にある「鳥
辺野」あたりに葬られたと考えるのが自然ではないだろうか。
イン”定子様の陵をお参りしたく、天気予報を見ながら敢て少雨の日を
選び鳥戸野陵を訪ねた。
場所にどなたが眠っているのだろうか、と頭に浮ぶことはあっても、
それ以上調べることはしなかった。
その日は雪が降りしきる夜であったという。
孝明天皇陵参道
鳥戸野陵の東南には、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の陵がある。
こちらもお参りしていこう。
参道入口の石碑
付近には幾つもの陵がある。
孝明天皇陵
しばし雨の降る中を歩くと陵が見えてきた。
古風な外観の陵である。
泉涌寺遠望
孝明天皇陵からの帰り道に泉涌寺を望む。
泉涌寺の谷間に咲く紫陽花
春ならば鳥戸野陵を参詣したあとに、北へ剣神社に出る道筋を五分
ほど歩けば、谷間に咲く枝垂桜を見ることができる。あまり知られ
ていないが、立派な枝垂桜である。
例年三月下旬から四月上旬に見事な花を咲かせる。人に例えれば、
中宮さまというよりは清少納言とでもいおうか。短い期間に ぱっ
と咲き、散り際が気持ちがよいことから清少納言に例えたい。こ
の場所から中宮定子さまを見守っていると思いたい。桜の木の下
には清少納言の魂が眠っている?
※「雨の京都 泉涌寺と清少納言と紫式部」もあわせてご覧ください