唐招提寺を訪ねて・その参

 

戒壇

覆屋は江戸時代に焼失し、風雨にさらされた戒壇だけが残っている。
独特の塔の形は、インドの仏塔をモデルにしているという。

 

門より戒壇を望む

 

戒とは
戒を授かり僧となるには、三人の師と七人の証人(これを三師七証という)
の僧侶の下で戒律を理解し、守ることを誓わなければならない。戒を受けて
初めて国家承認の僧侶として認められる。

鑑真が招聘されるまでは、正式な受戒は行われずに“僧侶”になる者が現れた。
僧侶になると税や労役が免除されるなどの特権があり、エセ僧侶が闊歩し
社会問題になったようである。そこで受戒制度を確立するために、朝廷が鑑真
を招聘したということである。

 

御影堂(重文・江戸時代)

鑑真和上像は、ここ御影堂に安置されているが、通常は参拝できない。
この堂は、昭和三十八年に興福寺の一乗院の遺構を移築したもの。

 

開山堂

国宝の和上像が御影堂に移されたのち、「御身代わり像」がつくられ、
こちらで参拝できるようになった。

 

松尾芭蕉歌碑

  若葉して おん目のしずく ぬぐはばや

 

会津八一歌碑

     おほてらの まろきはしらの つきかげを 

          つちにふみつつ ものをこそおもえ 

 

境内の松林

小説家の堀 辰雄は、このあたりで寝そべっては金堂を眺めていたという。

 

はす池

西に戒壇、東に東室跡がある。

 

開山堂跡付近

正面の建物は本坊である。

 

本坊前の参道

六月であったが萩の花が咲いていた。

 

本坊の築地

趣きのある長い築地が東門までつづく。

 

 

 

 

食堂跡

苔むした庭園に食堂を偲ぶ。

 

御影堂前より礼堂を望む

 

 

東門より境内を望む

 

「道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい
橋の手前で俥を下りた。樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなく
さわやかな気分を誘い出す。道の右手には破れかかった築地があった。なか
をのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っている。
もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し
込んで来る。その明るい所に唐招提寺があった」
※和辻哲郎著『古寺巡礼』より引用

大正七年五月、唐招提寺を訪れた和辻は上のように述べている。文面から
推測すると、秋篠川に掛る橋をわたり東門から境内に入ったようである。
上の写真はその情景の場所であるが、当時はもっと荒れた感じがあったの
ではないだろうか。

 

鑑真和上廟入口

写真右端に東門がある。

 

入口より御廟を望む

正面突き当たりに御廟がある。

 

御廟前の庭園

苔むした庭園が目にやさしく映る。

 

鑑真和上御廟

北東側より撮影する。

 

 

 

 

鑑真和上がこの地を下賜された当時は、「唐律招提」と名付けられ、私寺として唐の戒律を教える学問所のような性格を持っていたようである。金堂も未だなく、講堂のみが道場であることを窺い知ることが出来たのではないだろうか。鑑真和上が入寂されるまでには、金堂は建立されていなかったという。

鑑真和上亡き後に弟子たちが唐招提寺の伽藍の充実に尽力し、金堂、鐘楼などを次々に整備し、官寺へ発展させたようだ。現在は戒律を伝える宗派「律宗」の総本山である。

鑑真和上とその一行が我が国にもたらした仏像、経典、美術品、文化、建築技術、植物など、その恩恵、影響はけして小さくはない。ほかに舎利三千粒をもたらし、初めて聖武上皇 に謁見するときに奉呈せられているという。

現在の境内のにぎわいからは、数十年前の世間から隔絶されたような境内の静寂が嘘のように思えるのではないだろうか。
鑑真大和上、松林に囲まれた御廟で安らかに眠りつづけることを祈るばかりである。