新薬師寺を訪ねて

 

新薬師寺本堂(国宝)

 

新薬師寺は、天平十九年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の
光明皇后によって創建された。金堂や東塔、西塔などの七堂伽藍を備えた
壮大な寺院であったという。現在のこじんまりとした姿からは想像できな
いほど大きな伽藍であったに違いない。現在の本堂は、元は食堂ではなか
ったかと言われている。

 

 

「この堂の前に立ってまず否応なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい
確かさだと思う。あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象す
る建築は他の時代には見られない。しかしこの堂の特徴はいかにも軽快な
感じである。」・・・『古寺巡礼』より

大正七年五月、和辻哲郎は新薬師寺を訪れ、天平時代の面影が残る勾配の
緩い入母屋造りの本堂を正面から眺めて前述のように述べている。また、
「このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうと
いうような驚きの情に高まっていく。」と二十五歳の新鮮な驚きの感情を
隠していない。

 

 

 

 

 

 

 

通常正面(南面)の扉は閉っている。扉の向こうには薬師如来が安置されている。

 

 

 

 

 

本堂北面(西方向を望む)

 

 

本堂北面(東方向を望む)

左端に見える瓦屋根の建物は東門。

 

本堂西側入口

 

 

本堂西側入口上部


十二神将

堂内に入ると、円形の土壇の上中央に南の方角を大きな目で見つめるお姿の薬師如来座像 、そしてご本尊をぐるりと取り囲むように十二神将立像が守っている。まず薬師如来にお参りし、次に時計まわりに十二神将立像(国宝・奈良時代・塑像)を拝観するとしよう。

薄暗い堂内、わずかな照明の明りと扉の隙間から漏れてくる外光をたよりに、
一体、また一体と神将と対峙し目をこらすようにして観察をする。長年待ち望
んだ瞬間である。遠い過去に土門拳氏の写真で見た憧れの像である。
想像していたより小柄なお身体、全身が石膏像のように白っぽく見えるのは、
長い年月で彩色が劣化し剥落したものとみえる。

今にも敵に向かってたたかう憤怒の顔と姿勢かと思いきや、意外にも静的な姿勢に見える。立ち姿に緊張感が見られないのである。“スキ”だらけの姿勢に見えるのだ。「どこからでも掛かってきなさい」 という姿勢か。“武芸の達人”とはこういうものなのだろうか。それとも私の目がくもっているのか。

最後の神将にまで進み、一番会いたかった“怒髪天を突く“のメキラ大将(バサラ大将とも)との対面である。 右手腰辺に下げ剣を構えるメキラ大将を見て、ようやく納得できる神将像に出会えたという感じがあった。

薬師如来
「薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。・・・よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと外にはないと思う。」・・・『古寺巡礼』より

再び和辻哲郎氏の文を引用したが、薬師如来の肩から腕にかけての逞しさ、堂々たる胸の厚みには畏怖の念さえ覚える。特徴的なものは大きく見開いた目である。この特徴はほかの仏像には見られないもので、それ故に聖武天皇は目を患っていたのではないか、と推測されている。

新薬師寺の新とは、霊験あらたかの新である。薬師如来は衆生の病気平癒を本願の一とする如来なのだ。現世利益の如来なのである。薬師仏は、初めから金箔を貼っていないカヤの一木を用いた素木造りであり、これもまた珍しい。新鮮な感動を覚えるであろう。

 

本堂西側入口の扉

扉は内開き。千二百年前の木材であろうか、修理した埋木の跡が見える。

 

大斗肘木

 

 

本堂正面の垂木と木組み

 

 

本堂正面の木組

 

 

二軒垂木

天平時代になると垂木は上下二段の二軒(ふたのき)垂木となる。上部の断面が四角の垂木を飛檐(ひえん)垂木、下段の断面が丸い垂木を地垂木と呼んでいる。

 

本堂鬼瓦

現存最古の鬼瓦と言われている。制作時期は天平から鎌倉時代か。

 

会津八一歌碑

 

ちかづきて あふぎみれども みほとけの  みそなはすとも あらぬさびしさ

大意:近づいて仰ぎみても、仏さまは自分を見ておられないようでさびしい。

会津八一はどんな人?
やまとの古寺を訪ねると、行く先々で会津八一の歌碑を見つけることができる。いったい八一とはどんな人なのだろうか。中学生時代より俳諧に親しんでいたというが、いつ頃から万葉風の歌を詠む ようになったのかは分らない。

八一は明治十四年(1881)八月一日に新潟市で生まれた(八一の名の由来は、これでお分かりかと思う)。専門は英文学で「早稲田大学」時代には坪内逍遙やハーン(小泉八雲)の講義を受けていたという。早稲田大学を卒業すると新潟県下の有恒学舎の英語教師となり、教鞭を執るかたわら独学で美術史を学び、その頃から奈良を訪れていた。奈良は八一にとって特別思い入れのある土地であったようである。

当時、遠く離れて暮らす女性と交際していたと言われるが、その恋は実らずに終り終生独身を通した。後に早稲田大学で英語や英文学を担当しながら、美術史学の研究をすすめ、大正十五年(1926)には早稲田大学文学部の講師として東洋美術史の講義を 始めること になった。
「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法を 観てゆくと云うことは、何よりも大切なことだ。」
と考え、学生を連れては奈良を訪れ古美術に触れさせていた。長期にわたり学生とともに旅館で寝食をともにし、昼夜議論していたことであろう。

太平洋戦争時代は八一にとっても苦汁を嘗める日々を送った時代である。
戦局が不利になる昭和十八年十一月、学徒出陣する学生を募り数日間の最後の奈良旅行を行った。八一は学生とともに奈良を訪れて寺々を巡り、そして戦地に送り出したという。
その心中如何ばかりか、察するに余りある。その旅行で詠んだ歌のひとつに

 かすがのの こぬれのもみじ もえいでよ またかへらじと ひとのゆくひを

大意: 春日野の紅葉の梢よ、赤く燃え出ておくれ。二度と生きて帰らないと
学生たちが決意して戦地に出て行く日に。

八一にとって奈良は、古美術や和歌に親しむうちに心のよりどころとなった土地ではないだろうか。次の歌のように・・・

 やまとは くにのまほろば たたなづく あおかき やまごもれる やまとし うるわし 

※大和は国の中で一番良いところである。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山やまにかこまれた大和はほんとうにうるわしいところである。

いつの時代でも日本人は絶えることなく奈良を訪れ、心のよりどころとするのであろう。

 

地蔵堂(重文・鎌倉時代)

 

 

鐘楼(重文・鎌倉時代)

 

 

実忠和尚御歯塔

 

 

香薬師堂庭園

 

 

 

 

 

 

築地の向こうに本堂入口が見える。

 

本堂正面の石灯籠

 

 

南門を望む

 

 

南門(正門・重文・鎌倉時代)

正面に見える建物は本堂。

※撮影年:2017